日本語はどこからきたのか―ことばと文明のつながりを考える (中公文庫)
大野 晋 中央公論新社 中央公論新社
タミル語
タミル語と日本語の類似点をあげている。
日本語とアイヌ語の2つの言語の起源を辿ろうと思ったら、膠着語という日本語の性格を理解していることが大切。
文化の背景を理解するのに役立っている部分がある。
知的興奮度100%の日本語起源説 !
著者は「日本語練習帳」等で御馴染みの国語学者。その著者が放つ画期的な日本語起源説。日本語は一応アルタイ語族に入れられているが、著者は次の点で不満があると言う。
(1) アルタイ語族の中で、日本語と基本単語が数多く対応する言語が見当たらない。
(2) 古代の文献で、同族である事を示すものが存在しない。
研究の果て、著者が辿り着いたのがタミル(インドの南部地方)語である。タミル語と日本語には多くの基本単語の対応があり、しかもタミル地方には「サンガム」という紀元前の文献が残っており、その文法構成は「万葉集」のそれと対応するという。基本単語の対応の例を挙げよう。まずは「辛い(カレー)」である。英語の「curry」の語源を大英和辞典(研究社)で見ると「Tamil kari sauce」とある。カレーの語源はタミル語の「kari」なのだ。日本語との関係で示すと以下のようになる。
[日本語]kar-asi(辛し) [タミル語]kar-i(辛い)
驚くべし、日本語で「カレーは辛い」と言うのは、「辛いは辛い」と言っているのと同じ事なのだ。次は日本独特の感覚だと思われる「あはれ」である(タミル語でfとvは同じ発音)。
[日本語]af-are(哀れ) [タミル語]av-alam(悲哀)
「av-alam」には「哀愁に満ちた情趣」という意味もあるそうである。まさに日本古典文学の中心的情緒の「もののあはれ」。これには衝撃を受けた。遥か昔、稲作技術を携えてインドの南洋からはるばる日本にやって来た人々。夢とロマンを掻き立ててくれる知的興奮度100%の日本語起源説。
日本語の起源に興味があるなら必読
もともとこども向きに書かれたものが文庫化されたようです。そのため、難解な専門語も極力やさしいことばにひらいてありますが、内容はこどものみならず大人が入門書として読むにも耐える話の運びです。言語(の起源)の研究の手順や意義についても手を抜くことなく説明しており、また歴史や文化など周辺領域との関わりも分かりやすくとりこまれており、氏が長年主張し続けているタミル語=日本語研究が決して突飛なトンデモ研究でないことがよく理解できるはずです。
日本語の源流を求めて (岩波新書)
大野 晋 岩波書店 岩波書店
珠玉の名著
ここの評価欄にも書かれているように、タミル語の-a-はタミル語内部で-u-とも
(共時的に)交替する。
それゆえ、タミル語-a-は日本語と-a-と-o-以外に-u-とも対応する(数は少ない)。
ところがこういうことに拒否感を持つ人々がいる。この種の拒否感は、印欧
比較言語学に見られる一音一対応を盲信するところから生ずる。日本語はクレオール
タミル語であるとすれば、このような軛から解放されるであろう。
現実に、タミル語内部で-a-は-u-とも交替しているのであるから、日本語でも
タミル語-a-は-u-にも対応するのは当然なのである。
タミル語-a-は-i-とも交替する。つまり、タミル語では/i/と/a/と/u/が相通する
場合がある。従ってこれが日本語にも反映して「いる」「ある」「おる」という
語が存在する。これらはタミル語iru、aru、ulとの対応である。もっとも上代
日本語では「ゐる」「ある」「をる」だが、これは前置される語がすべて開口音の
ためにw-が調音として介入したものである。「ある」だけは「わる」になっていないが、
上代文献に載らなかっただけであろう。
なお、タミル語eの古形はaであり、さらにyaにさかのぼる。この通時的変化
は日本語にも及び、eはyaとも対応する。なおまた、タミル語iの古形がciである場合が
あり、従って、iが日本語siと対応する場合があることは否定できない。
このようなタミル語内部での交替ということに無知だと、大野説は出鱈目という
結論に至りやすい。この点を注意深く押さえてから批判すべきであろう。
ともあれ一語一対応という印欧比較言語学中心の思考から一歩踏み出さなければ
進歩はないであろう。
日本文化は混合文化であることの証左の一つ
日本は、極東で、大陸の端っこである。
そのため、多くの文化を受け入れている。
4大文明のうち、インド文明と中国文明のよいところを引き受けている。
仏教と儒教が日本の文化の基礎の大きな部分を占めているかもしれない。
言語の面において、漢字として中国の文明の遺産があるとすれば、インドからの遺産もあって不思議でない。
また、太平洋上の諸島や、アイヌ、エスキモーなどの文化も混入していることは想定できる。
本書は、その当然のことを一つの筋書きで書き下した物として了解できる。
朝鮮半島の言語と日本語との間の関係の分析は、隣接している国であるため、重要であろう。
一番近くの言語との関係と、それ以外の言語との関係を、体系的に説明してもらえるとありがたい。
特に、アイヌ語との関係が分かると嬉しい。
日本語=タミル語クレオール説の精髄:いかんせん無理がある
大野氏の日本語論は面白い。係り結びの発生機序や源氏物語、日本書紀などいろいろな分野で活躍しておられる、米寿にしてなお矍鑠たる大学者といえる。その大野氏がずっと唱えておられる、タミル語が日本語の形成に大きく関わったとする説の本質的なところを取り出してまとめた書物がこれだ。いろいろな語例も挙げてあり、特に44-46pの三頁を費やした対応語の表は立派なものだと思う。しかし、どう見てもこの対応、説得力に乏しい。日本語のaはタミル語のaまたはoと対応すると言っておきながら、タミル語のoはuと交替するからといってuも対応させ、語頭のyやsは脱落することもあるからといって任意につける。結果として対応規則は非常に甘く、実際に観察されない*つきの語彙を媒介しての結びつきが多い。また意味的な繋がりも、ご本人には明白なのだろうがこじつけにしか思えないところも多々ある。勿論かつていわれた万葉集は朝鮮語だとかいう愚説珍説と違う、学術的な記述ではあるのだが、どうにも胡散臭い物を感じてしまうのは否めない。寧ろ後半の民俗などに関する章が興味深いが、著者自ら自分は専門でないのでよくわからない、と言われるだけあってそれだけに終わっている感がある。ともあれ一読の価値はあるが、信じ込む必要はないだろう。
多層な日本語の中でのタミル語の位置
日本には、昔から進んだ外国文明の波が何度も押し寄せてきました。わが国には無かった形而上的な考え方から日用品にいたるまで、諸物が輸入され、また同時にそれらを表現する新しい「ことば」も、もたらされました。こうして「日本古語」を低層にして、その上に時代と共に到来した色々な外国語が重層的に折り重なり、現代の日本語が形づくられてきたそうです。著者は、この層構造の2層目に南インドのタミル語があった筈だと考えています。このことを、タミル語と日本古語との「ことば」の比較、またタミル語使用地域の遺跡・遺物などと日本のそれらとの比較を通じて、証明を試みています。また伝播はタミル人が直接来たとしか考えられないそうで、彼らが、紀元前千年ころに日本に渡航することが可能だったことも証明しようとしています。
著者の言語比較法が厳密なのか、頻用される言語学の規則や2言語間の変換規則が一般的なのかは、よくわかりません。しかし「ことば」の意味、内包の表現は驚くほど明晰です。基礎語の意味を明確に確定する優れた基礎作業の上で、初めて可能な比較法だと思いました。
著者は、高校生の時に「カミ」とか「ミイツ」の意味に疑問を抱き、それがもとで、言語研究の道に進んだそうです。タミル語研究から、著者は、その答えを見つけています。
古事記冒頭でのカミの記述で、「隠身也」を宣長は、「身を隠したまいき」と読みましたが、著者はタミル語の意味も参照しながら、「かくりみ(隠り身)にましましき」(カミは最初から姿は見えなった)と読み直しています。とりわけこの点はすごく刺激されました。
明快な仮説を立て、それを証明するために、視野を広くもち、既成の学問の常識に捉われることなく、研究に全力を尽くす。そういう生き方をした個性が強い一人の研究者の研究歴として読むと、本書は、後に続く人達を励ます書になります。
言語学的ロマンの結晶
有名な「日本語タミル語起源説」(今はクレオール説となっているが)で知られる大野教授。
その集大成と言っていい著作だ。
両言語同士の比較だけでなく、文化同士の比較例も豊富に挙げ、あくまで仮説と断りながらも日本語がタミル語の影響を受けつつ成立していく過程を、一本の流れとして解き明かす。
正直に言えば、以前から多く指摘されている通り、単語の比較には説得力があるとは言えない。
大野氏の比較方法だと、一定の確率で似た単語が出てくることは避けられないからだ。
ただ、文法や埋葬文化に関しての比較の中には、なるほどと思わせるものも存在する。
本当にタミル起源かどうかはともあれ、これだけ離れた両文化に意外な共通点が見い出されることに、知的好奇心が刺激される。
サンスクリットと西欧諸語との共通点の発見から生まれた比較言語学という学問は、すでに学問としては袋小路に突き当たってしまっている。
だが、他に類例を見ないほどに、ロマン溢れる学問である。
この著作からは、比較言語学華やかなりし日の熱狂の余韻を感じることができる。
本書に載っていることのほんの一つでもいいから、本当に南インドからやってきたのなら・・・と想像するのは楽しいことだ。
日本語練習帳 (岩波新書)
大野 晋 岩波書店 岩波書店
解き進め、実感する
単語、文法、語用法、読解などを5つに項目立てし、問題を解き、解説による答え合わせを行いながら読み勧めていく作品。傍らに筆記用具とノートは必須だ。
【1章】「思う」と「考える」の違いから展開される第一章。言葉の微妙なニュアンスを問う。意味はほぼ同様でありながらも用法の大きく異なる漢字について語源を辿ることでその違いを解き明かす。単語を解剖する方法と、単語への感受性を鋭くする習慣を身につける。
【2章】主述の関係をパターンに分け、「読みやすい文章」と「読みにくい文章」の違いを問う。日本語の基本は主述を結ぶ「は」と「が」にある、と言い切る著者の文法論が光る。
【3章】うっかり書いてしまいがちの、「のである」口調と「〜が」の連続した文章。読む側に与える印象と読みやすさを考えながら、問題点を抽出、添削する。
【4章】1〜3章までの内容を用いて文章の「縮約」に臨む。還元、読解、創作能力を総動員して行う「縮約」によって、文章の骨格を見出し日本語の体系を実感する。この作品の醍醐味といえる章。
【5章】最後に、敬語の用法を尊敬、謙譲、丁寧語それぞれのルーツを辿り理解する。
各章の内容は上記のようなものだ。巻末には問題の配点表があり、自分の得点から現状の日本語への理解力が振り返ることができるようになっている。偉そうに色々と書いてしまったが、私の自己採点は250点中160点。(ちょっと甘くつけたのに・・・)まだまだ理解不足だと実感させられる。
テストは悔しい思いをしたが、読み物としてもこの作品は面白い。著者は読者の文章技術向上のために本作を書かれているが、表面的な技術習得などは全く目的としていない。問題と向き合い、考え、答えを出す過程を通して、日本語の持つ奥深さと味わいを実感して欲しいと思っているのだろう。読み勧めるうちに、言葉に対し感覚が研ぎ澄まされていく実感と楽しさを覚えた。また、有名な学者や作家であっても歯に衣着せずにズバリと切る著者の言葉は、力強さと確かさを持ち、新鮮であり刺激的であった。
大きな概念や現象を捉える時、そして発信する時、自身を形作る言葉の本質を掘り下げた人とそうでない人では言葉の重みが違う。著者は志賀直哉をズバリと切った。志賀作品をほとんど読んだことのない私にはそこに何の判断も下せないが、それをするだけの言葉の掘り下げと向き合いが、著者はできていることは頷ける。そしてそれは実際に何度も自問し、書き出してみないと習得できないものなのだろう。
著者がなぜ練習帳という形式をとったのか。最後に作中から一文引用する。
〜極意というのは実は簡単なものです。その言葉だけを見るとそれは簡単です。しかし、その言葉が指す事実がいかに広く深いかを、実際を通して感得できるに至ってようやく、極意書の文章の意味が分かるようになったといえるでしょう。〜
役立つ一冊☆
この著者はいつも謙虚な姿勢で文章をまとめているらしくとても読みやすいです。
日常的な単語、文法、敬語についてまとめていますが本質をつかれるとうっとたじろいでしまうところがたくさん指摘されていて退屈しません。一気に読めます。
高校生の時に読んだのですが、本当に役立ちました。
「が」を使うなとか「である」「のだ」を消せという指摘は本当に的を得ていると思います。
これは大学生になった今でもこの本を読んでいてよかったなあと思うので日本語を使うすべての方におすすめの一冊です。
英語力云々の前に、日本語力が基本ですなぁ
本書で書かれている内容を理解できていないと、外国語マスターなんて覚束ないと思いますね。特に「単語に敏感になろう」という章で、色んな類義語の違いを理解する下りがありますが、こういう「言葉のニュアンスにこだわろうとする気持ち」が外国語学習でも重要だと思うわけです。また「は」と「が」の違いに関する処は、aとthe(と無冠詞)/単数と複数の問題を理解する時の心構えに通じるものがあります。こういう細かい処に敏感でないと、外国語で細かいニュアンスなんて表せるはずがありません。新書ですから分量的に尽くせる筈がありませんが、上の意味での「語学学習の心構え」を学ぶ本なのだと思います。
最近は「英語は小学生から学ばないと、、、」とかいう話がありますが(→発音/聴取り力では一理あり)、本書で述べられているような「日本語に対する深い理解/感覚/こだわり」が基本にない限り、外国語の理解なんて上っ面をかすめるだけじゃないか、とも思いますね。(理系だから国語は試験科目としてやらなくて良い、とかいうのも暴論です)そういう視点で本書を読んでみるとまた違った楽しみ方が出来るかもしれません。「日本語と外国語」(鈴木 孝夫)/「日本語(上)(下)」(金田一春彦)と同時期に読んでいたので、そんなことも思ったりした次第です。
共感できるがボリューム不足
ただ闇雲に正しい表現をしろというのではなく、目的のために記述の方法や表現の方法を工夫しなければならないという筆者の態度が、心地よい。その態度は敬語に関する記述でも同様で、「どのような表現が適切であるかは時代によって変わってくる。しかし、文章のルールや構造を知っていないと、臨機応変に適切に使っていくことができない。」と筆者は述べている。しかし、ボリュームはやや少ないため他の本で補充する必要があるだろう。
深い考察なのにめちゃ謙虚
研究者としてこれだけまとめ上げながらも押し付けがましくない。
これはあとがきを読めばどういう意図で作成されたかがよく分かります。
単なるハウトゥではない日本語の捉え方の根っこの部分をわかりやすく
とても論理的に説明している指南書?薄っぺらじゃないのです。
時代とともに変わっていく日本語を俯瞰してどれが正しいではなく
この時期はこういう言い方もしたけど元々はこうで・・・と起源も解説。
「が」と「は」の違いをこれだけ論理的に語れる人なんて稀でしょう。
答えよりも考え方を示唆してくれている部分が多いので日本語そのものを
どうやって分解・再構築していくか気になってる人にはもってこい。
単純に正誤だけで判断する人には正直向かないでしょう。
やはり、どれだけ伝わるか。伝わらなければ伝え方が悪い。
というあとがきで語られた思いがこの方の原動力なのでしょう。
日本語の起源 (岩波新書)
大野 晋 岩波書店 岩波書店
膠着語
日本語、朝鮮語、ツングース語、モンゴル語、トルコ語と同様、タミル語も膠着語だそうだ。
インド南部のタミル語と、日本語をむすびつけるのは想像を絶する。
ただ、中国南部を訪れたとき、漢民族よりは日本人に近いという印象を受けた。
特に、朝鮮半島から来た渡来人以外の人々と、中国南部、タイの人々は似ているような気がする。
そんな印象から、研究自体は面白いと思う。
執念ともいえる熱意を感じる一冊
タミル語説に懐疑的であったため、手に取りました。
結論から言えば、あまり説得力は感じられません。
反論できる知識は、持ち合わせていないので、どこがおかしいなどとは、指摘できないのですが、全体的に首をかしげながら読んでいた感じです。
ただ、熱意は強く感じました。
執念ともいえる程の熱意で、タミル語説に懸ける努力と行動力には、尊敬の念を抱きます。
これらの研究結果が良い方向で活かされれば良いのですが、少々的外れな印象は否めず、とても残念です。
内容について気になった点をひとつ挙げておきます。
第一章『六.五七五七七の韻律』のところの最後のほうで、歌集サンガムには、五七七という日本の片歌と同じ形式の作品が多数あるとのところで、日本語では片歌では形式が短く、一首としては不足気味なので作品が少ないと指摘しています。
その理由として、日本語は一音節語が少なく、五七七の十九音節では単語が足らず十分な表現ができないが、タミル語では一音節の子音終わりの形で一語をなす単語が少なくないので、十九音節でも多くの単語を含められる、と。
いくら単語の対応語数が多くても、また五七五七七の韻律が同じ形式であっても、文章としたときの韻律とその意味は、まったく一致しないのでないかと思い、大きな違和感を感じました。
読んでみて、とても勉強になったと思うので、日本語の起源・成立について感心のある方は、読んでみて損な内容ではないと思いますが、その内容については、疑問も多い一冊です。
誤解
コンパクトにまとまっているので、一覧しやすい。
「日本語の形成」(岩波書店)の内容を整理するためにも役立つ。
いまだに多くの人々が、日本語はクレオールタミル語であるということを
理解できないでいるのは奇妙なことである。
クレオール語と母語の比較は、いわゆる印欧比較言語学で確立された方法論を
以ってしては「答え」が出ないのはわかりきったことである。
批判者は、日本語とタミル語の祖語から検討すべきであるという。
では、イングリッシュクレオールであるトクピシンは英語の祖語とトクピシンの
祖語から検討しなければならないのであろうか。これが如何に馬鹿げた主張で
あるかは言うまでもない。
しかし、比較言語学者は大野氏の説を何が何でも印欧比較言語学流の方法論の
俎上に乗せたいらしい。
村山七郎氏はじめ、最近では山下博司氏(東北大・タミル語学者)までが、
異様な熱意で大野説を批判するが、彼らが批判しているのは大野氏の挙げた
500語の対応のうちの10%で、残りの90%には一切言及しない。
村山氏に至っては、500語をいちいち検討する必要はない、大野のような
不真面目な対応のさせ方に対しては10語程度を検討することで十分、と
奇妙なことを言う。
また文法対応については全く反論できないでいる。
これはかえって大野説の正しさを反射効果的に立証しているようなもので、
苦笑を禁じえない。広い視野を持った比較言語学者がいない日本では、
このレベル以上の反応は起こりえないのであろう。残念としか言えない。
功罪相半ばする一冊
日本語の起源という日本語学最大のテーマに挑む一冊。伝統的な国語学の範囲における係り、五七五七七の短歌の形,カミ,アハレ,サビといった単語の精神文化的研究は大変示唆に富むものであり、読むべきところが多い。
しかしきわめて残念なことに、日本語の起源をタミル語と、比較言語学的な手続きを全く経ずに強引に結び付けているが、全く理解に苦しむところである。大野氏の師である橋本進吉先生は草葉の陰でどう思われているだろうか。
一部で「クレオール」という用語や概念を振り回す傾向があるが、クレオールを理解していないと言わざるを得ない。近年の対照言語学や言語類型論の観点からも、タミル語以上に日本語との文法の類似性を見せる言語はすでに相当数報告されている。タミル語の文法のみを取り上げる理由はない。また、いつ、どのようにしてタミル語をはなす人々が日本列島に到達したのか。また、その間に中間にあたる言語が存在しないのはなぜか。大野説に固執し、不要な論難を行い、これまでなされてきた誠実な言語学の努力や成果を侮辱する人々は以上のような疑問に答える義務がある。
大野氏の文体は非常に流麗であるので、多くの人々には一見説得力があるように見えるようだが、比較言語学的にはほとんど意味がないものだと結論せざるを得ない。岩波新書という権威と入手のしやすさから、本書が多くの言語学の素人を惑わせているとすれば、その罪は重いといわざるを得ない。
個人としての氏の逝去は悼むし、古典文法の功績について、評価すべき点について評価するのはまったくやぶさかではない。しかしもはや、なぜこのような「トンデモ」本が出版され、一定の認識を得るという悲喜劇が起こったのか、出版や学術研究のありかたや集団心理について解明する時期であろう。
学術的なタミル語説の検討については、次のような書籍を読まれることを薦めたい。
堀井令以知 「比較言語学を学ぶ人のために」
村山七郎 「日本語タミル語起源説批判」
安本美典 「新説!日本人と日本語の起源」
これは本棚に置いておきたい
ずっと日本語を話してきて、これからも日本語を話す日本人として、
こういう本は読んでおいた方がいいと思いました。
大切なことが書いていて、この説は非常に説得力のある内容です。
南インド?タミル語・・?と最初トンデモ本かと思いましたが、本を読めば最初の疑いは飛んでしまいます。
価格も安いと思うので、これはお得な本です。文句無しの星5つ
日本語はいかにして成立したか (中公文庫)
大野 晋 中央公論新社 中央公論新社
言語学の範囲を超えて
本書を読むと、日本語の成立でなく、日本文化の成立について学んだ気になる。言語学がどの範囲までをカバーするのか知らないが、言語学からの視点に重きを置いた、日本文化成立史と捉えた方がいいのではないかと思える。
本書は、ニューギニア神話と瓜子姫の話の共通点などから、日本のイモ文化に言及するが、日本史に関する多くの著作は稲作が始まるまでを狩猟採集文明とひと括りにしてしまうことが多く、この時代から扱っているものは少ないと思う。
民俗学や考古学の成果も取り入れて日本語の成立過程・変遷を明らかにし、さらに日本文化の新たな視点も示す好著である。
日本語成立の過程が鮮明に
「タミル語=日本語起源」説を唱える著者が、日本語の成立過程を、第1次のタロイモ栽培期、第2次のタミル語伝来期、第3次の朝鮮半島からの外来語伝来期に分けて考証を加え、更に藤原定家による仮名遣いの確定までを綴った力作。
第1次では、ニューギニヤに伝わる神話も加え、日本の神話を考証し、"食"と言葉の関連性に着目する。そして、縄文期のタロイモ栽培期に日本語のベースが出来たとする。第2次は著者の持論であるタミル語伝来の話で、いつもの通りタミル語と日本語の関連性を強調するが、特に稲作関係の言葉の関連性の強さには改めて驚かされる。「タミル語の伝来=稲作技術の開始=弥生時代の始まり」という図式が自然に浮かび上がってくる。
感心したのは第3次で、著者の持論とは離れている筈の朝鮮半島からの外来語の影響をキチンと認めている態度は潔いと思った。これ以降に起きる大きな事件は、勿論"漢字"の伝来である。日本人がこれに工夫を加え、仮名を発明した経緯が詳細に語られる。そして、この仮名文化が果たした役割が「源氏物語」を中心に評価される。最後に、藤原定家が控えめに提案した仮名遣い案が、最終的に日本語の仮名遣い方法を決定した事が述べられる。改めて定家を見直した。紫式部と定家とで、シェークスピアの役割を果たした訳だ。
自説の「タミル語=日本語起源」説に拘りながらも、日本語の成立過程を鮮やかに描き出した良心的学究本。
功名一時の日下
友人に「太郎」という名はタロイモが由来だと話していたけれど、説得する根拠がなかった。
大野先生の妹の話で自信をつけました。
逆に草薙の剣はちょっと残念。 名の由来は「くさか」(日下 or 草香)を平らげた剣だと思ってましたから。
日本語の先祖捜しが難しいのは、太安万侶が古事記に書いてあるように、先祖のポリネシア語との明らかな断層です。
でもこの本のお陰でなんとか先が見えてきました。
4世紀後半朝鮮半島に住んでいたヤマト人が本土に難民として流入してきたとき、ポリネシア語との合成でできた彼らの言葉が表現力豊かだったので本土の言葉を凌駕してしまったという仮説を立てれば、クリアできそうです。 負戦だったので記録はありませんが。
以前読んだジャレドダイヤモンドの「Collapse」に古代の天皇制とかヤマトの由来らしい話が載っていて(p109)驚いたのですが、ポリネシア語は文字のない言語で変遷が激しく比較はできないようです。 朝鮮語との比較も朝鮮語の文書自体が15世紀までなく絶望です。
本書後半の日本語の形成過程は読み応えがありました。
それにしても私が40年前日本史で聞いた草香城に立て籠って奮戦した人たちは誰か、それが未だに判らないなんて。 弥生式土器は縄文式土器が進化した物だと専門家は考えているらしいですが、素人の目が見れば馬鹿な考えです。 多分草香城に立て籠っていたのは私の先祖であり、そのまた先祖は赤い土器を持って来たラピタの民だったら、ロマンですね。
Collapse: How Societies Choose to Fail or Succeed
日本語は日本の文化・歴史であり、何より日本人そのものだ
「言語は人間と共にあり、文化と共にあり、むしろ文化それ自体である。それは歴史そのものであると言ってもよいほど時間的存在であり、未来を目指してはたらく人間の営為である。」
あとがきから長々と引用させていただいたのは、大野氏の精神がまさにこの言葉に凝縮されていると感じたからだ。この本がユニークなのは、世界中の神話学や考古学、歴史学などさまざまな学問と関連づけて日本語を論じているからであり、それらの関係をひもといてゆく過程に妙味がある。
おかげで私は日本語だけでなくアジアを中心とした世界の文化、歴史、文芸までも勉強させていただいた。実に興味深い本である。
そして太古から多くの人々が膨大な時間と労力を費やして作り上げた日本語の尊さを再確認することができた。
大野晋日本語学と大野晋民俗学の総括本
レビュータイトルどおりの内容です。
大野晋博士の著作「係り結びの研究」「日本語の形成」などに示される日本語学の成果と、民俗学的視点・古代史学視点とを加えて日本語成立の歴史に肉迫した力作本です。博士著の文庫本では、1番の分厚さを誇ります。
日本語学から、古代歴史・古事記世界・民俗学に脱線した方には、特におもしろく、お奨めの1冊です。多面的視点から日本語学への造詣が深まり、大野晋ファンになってしまうでしょう。
また本書は、日本語学的視点から古事記偽書説を完全粉砕し、古事記ファンには痛快でしょう。博士著作の他の本もお奨めおすすめです。
以上
日本語の文法を考える (岩波新書 黄版 53)
大野 晋 岩波書店 岩波書店
大家とともに文法を考える
日本語文法の大家による日本語文法の論考。
中高の国文法、古典文法で丸暗記させられていたり、なんとなくすっきりしていない疑問点などを、学術的に、しかしできるかぎり平易に解き明かし、目からウロコが落ちることが多い。さらに、我々の意識しない日本語の文法に対する繊細なセンスを自覚させてくれる内容である。国語学専攻以外でも多くの人に読むことを薦めたい。
特に、助動詞「れる」「られる」が「受身」「可能」「尊敬」「自発」と多義的である点を歴史的に説明した部分などは知的興奮を感じさせる。
これも時代のなりゆきか…
日本語の古典文法は世界にも類を見ない例外の全く見出せない文法体系なのだそうである。それに比べて、今の私たちが使っている現代日本語は、カタカナ語の氾濫は措くとしても文法も極めていい加減な使い方をしている。「が」と「は」の使い分けも気にしない。古典文法では「き」「ぬ」「つ」「む」「らむ」など、フランス語やロシア語ばりの時制や体の使い分けが存在したのに、現代日本語では「過去」と「完了」の区別が出来ず、未来形は消滅している。とにかく平安期から使われていた古典文法は、信じられないほど精緻な体系だったのである。文法が単純・曖昧になったのは幸福だろうか、不幸だろうか。大野博士の文法の各側面、時代変遷に対する精密な観察を目の当たりにして、妙な感慨を感じた。
古文文法が納得できる本
なぜ「係り結びの法則」があるかを知ることができたのは大きな収穫であった.
この本では,他にも,高校の古文で丸暗記した古文文法に,
日本語の変遷から合理的な説明を加えている.
こういう説明をしてくれたら,古文が好きになっていたかもしれない
近年,同じ著者になる「日本語練習帳」がベストセラーになったが,
こちらの方が専門的・学術的である.
付録としてある「動詞活用形の起源」は,特に国語学の論文でも読んでいる感じである.
本格的なものを求めている人には満足できる内容だろう.
通時的研究に基づく日本語文法論
本書は、体系的な文法の記述ではなく、著者が大切だと
考えたことなどが自由に語られています。
9章と付録から成るこの本は、通時的な研究に基づき
現代の日本語の文法について述べられています。
例えば、日本語の助詞の意味をただ記すのではなく、
なぜそのような意味になるのかということを
奈良・平安時代にまで遡り明らかにしています。
また、ドイツ語・英語・マレー語・朝鮮語などの
外国語と比較し、日本語の特徴を浮き彫りにさせています。
個人的に特に面白かったのは、200年後の動詞の
活用形を予測したり、「グロッキーだ」や「ラッキーな」
というような形容語の増やし方について述べてあるところ。
非常に興味深い書だと思います。
源氏物語 (岩波現代文庫)
大野 晋 岩波書店 岩波書店
源氏物語の創作意図を探る
源氏物語の創作過程の論考が主なテーマの本。
成立論として、源氏物語の全五十四帖をa〜d系の四つに分けて論考されますが、これに少し戸惑いを感じたり、この本にとっつきにくさを感じた場合は、「光る源氏の物語」(中公文庫)を事前に読む事をお勧めします。(こちらは、丸谷才一氏との対談本)
ですが、対談では語りきれない内容が、この本にはこめられています。
紫式部が、自分の書く内容やニュアンスを表す言葉が当時の日本語に無かったために、おこなった言葉の工夫。そして、紫式部の文章における美意識など、国語学者ならではの分析に沿っての解説がされています。
他にも、源氏物語の創作において、テーマが「致富譚→男女のくい違い」という風に変化をしていくこと、作品の裏にある紫式部の漢籍に対する教養や、紫式部個人の女房づとめの経験が作品にどのように反映されていったのかが、「紫式部日記」との関連で分析されます。
著者は、自分は「源氏物語」の専門家ではない、というような断りを入れていますが、最後まで真面目で手抜きの無い論考がなされています。
とても面白い本でした。
「源氏物語」の4つの部分
素晴らしい「源氏物語論」です。
先ずは、言語学的なアプローチで、助詞や形容詞、形容動詞を分析して行きます。
その結果として、「源氏物語」の成立時期を4つの時期に分解します。
1)本編とも言える部分で、桐壺から予言が実現し女性たちが六条院に集結し大団円を迎える藤裏葉まで。
2)その本編の列伝とも言えるもので帚木から真木柱までの卷で、本編に挿入されている部分。
3)若菜上から幻までの八巻で、光源氏の死ぬまでの部分。
4)所謂「宇治十帖」で、光源氏以降です。
作者は、この4つを言語的な用法、表現の仕方、その制作意図、そして紫式部の私生活の変化から、分析してゆきます。
この分析の論理性、説得力には、文句の付けようがありません。ただただ「なるほど。」と頷くばかりです。
それは、紫式部と「源氏物語」の関係を紐解くミステリーのようなもので、その筆力にぐんぐん引き込まれてゆきます。
特に、私生活の追究の中で「紫式部日記」に対する分析は、あっと言わせられました。
「源氏物語」を改めて読み直さなければと思わせる素晴らしい評論でした。
源氏物語のもののあはれ (角川ソフィア文庫)
大野 晋 角川書店 角川書店
日本語の教室 (岩波新書)
大野 晋 岩波書店 岩波書店
16の質問
日本語と日本の文明についての16の質問に答える。
タミル語についての諸説以外は、それなりに知られている事項をより専門的に回答している感じです。
日本語が混合言語としての良さまで踏み込めているかどうかはわからない。
大変参考にさせていただきました。
大変参考にさせていただきました。
大野先生の日本語に対する分析は非常に精度が
高く、言語だけでなく社会情勢にまで的確に把握
されている教育書だと思いました。
日本語形成に関する明瞭な分析を示す好著
彼のベストセラー「日本語練習帳」を著した著者の、続編的な新書がこの著作です。
著者はオムニバス形式で、読者の質問に答えながら議論を進めていく形式でこの本を著しています。
例えば「日本語の詩では中国語やヨーロッパ諸語のような音による脚韻文が出来ないのは何故なのか」と言った質問に対して、日本語の音節が母音で終わる事と子音自体も他の外国語に比べて少ない事が重なってそれが脚韻による韻文の形成を阻害したのではないかと分析したり、「漱石や鴎外が『源氏物語』に苦闘したのはなぜか」と言った質問に対しては、そもそも彼ら男性が学んでいたのが『源氏物語』のような和文体ではなく漢文読み下し体によって語彙を獲得していった事を理由としてあげ、そもそもの「ヤマトコトバ」!の中から、中国語のような体系的、抽象的な概念が生まれず、逆に感情的、情緒的な観念が発達していったことをその背景として挙げていることなどを挙げています。
更に敗戦後の日本語政策に対しても著者は批判的な目を向けており、「常用漢字表」の作成によって、社会人になってもまともに漢字が書けない人間が増え、論理的思考が出来ない人たちが増えてしまった、と批判します。
そのような漢字政策1つとっても、それを捻じ曲げ次第で論理的思考が出来ず、外来語を意味も分からないままに「丸呑み」しているだけであると言った、日本人の思考面での危機的状況に対する著者の危惧感を私も共有するのですが、他の皆さんは如何に思われますか?
質の高い教養書
この本は、国語学を長年にわたって研究している大野晋氏が、「日本の言葉と文明」に関する16の質問に答えるという形式をとっている。質問の内容は多岐にわたり、「日本の言葉と文明」に関する筆者の造詣の深さと長期にわたるたゆまない研究の成果を示している。しかし、本書は岩波新書として出版されており、一般の読者にも十分理解できる内容となっている。本書は「日本の言葉と文明」に関する非常に質の高い「教養書」であると言えるだろう。
事態は深刻
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日本・日本語・日本人 (新潮選書)
大野 晋 新潮社 新潮社
日本の中核価値は日本語の中に納まっている
レビュータイトルは第一部三者鼎談(大野晋、森本哲郎、鈴木孝夫)の締めくくりでの鈴木氏(言語社会学者)の発言をそのまま頂戴しました。
まったくそのとおりで、身近な衣食住にはじまってもう少し大きな政治、経済、文化、果ては日本列島をとりまく気候風土に至るまで、日本列島の住人のすべてが日本語に詰まっています。つまり、この言語で我々は身のまわりの森羅万象を表現しています。
問題はまさに「中核価値」の中身や水準にあるのでしょう。
この点について、森本氏と鈴木氏は現状悲観的。大野氏だけが条件付きで希望を残しています。そして、その条件が日本人が日本語に取り組む姿勢の中にあるとの主張には勇気づけられます。
『文明が力を持つために大事なことは、やっぱり、ものをよく見るということじゃないかと思います。感じるのではなくて、見る』『物をよく見て、構造的に体系的に考えをまとめるという習慣を養わない限り、日本人はこれからの世界を生きて行けない。一瞬の美を感じて和歌や俳句を作っているだけでは、間に合わない。行政でも会社運営でも、事実、真実に対して謙虚に論理的に見抜く習慣を養わないと駄目だ』(本書p38から)
何やら文明開化の時期に福沢諭吉や大久保利通が国民の実状を前に夜中自室で一人呟くのを耳にしているようですが、150年後の今、まさにもう一度省みて姿勢を正すべきときにきているのでしょう。
しかし、これならば努力して実践できます。無理無体な条件では決してない。主導権はいまも、我々の手中にあるのです。
一意見として
学ぶべき事が多いので、星を4としました。
内容は各々の先生方の著書を読まれてきた方は勿論、言葉に興味のある方、研究に携わっている方に、つまり、万人に読まれて然るべき良書だと思う。
ただ、このような形式ですと、先生方の「俗」っぽい処も垣間見てしまうのが常なんですね。些か、「残念」に思える発言が幾つかあるのは確かです。
特に、若い方にはその部分が解せると思います。
言葉に興味のある人に、やさしいけど深い、思い当たること多し
碩学3人の対談、隠居の小言のように始まるが、時事ネタのようなありがちなトッピックから「言葉とは、日本人にとって日本語とは」という本質的な事柄に迫ってくる、何か説明してやろうという感じではなく、どんな切り口でも、なにか本質的なものがにじみ出てしまう、この分野の巨人たち。現在の日本語教育に大不満の大正生まれの3人だが
対談のときの気分が将来に対して楽観論の大野氏に対する悲観論の森本氏やや中立の鈴木氏とアンサンブルがとれている。対談のほかに3人それぞれ自説を短く紹介する文章を載せているが、大野氏の日本語の起源に関する文章を読むだけでもこの本を読む価値はある
言語学者が放つ「ゆとり教育」への痛烈な批判
「日本語練習帳」で有名な大野晋氏と森本卓朗氏のお兄さんである森本哲郎氏、そして「ことばと文化」で有名な鈴木孝夫氏の三者鼎談の形で面白おかしく繰り広げられる本です。
この三人を見ると、一見しただけでも「保守派の人間たち」である事は事実です。
特に鈴木孝夫氏に至っては、「大東亜戦争」と言う言葉を肯定的な意味で平気で使っていらっしゃり、これでは岩波書店から追放されてしまいかねないではないか?と危惧の念を抱きました。
しかし、そのような極端な意見を除いて、現在の医療、福祉、経済や文化の世界等で、使っている当事者でもその本当の意味が分からないような外来語が「丸呑み」の形で輸入されている現状に対して、このような現象が日本人の論理的思考法をますます弱まらせる結果になっている、と批判していらっしゃる点は、説得力がある話であると考えます。
そして、戦後に「常用漢字表」の制定で、日本人の漢字に関する関心が薄れてしまい、個々の漢字が持っている細かい意味の差異を理解できなくなってしまい、これが日本語に関する内省的理解を妨げる結果となったと主張なさっています。
そして、その根拠として、大野氏の議論のように、日本語は最初から純粋にあったものではなく、古代のタミール語等の外国語等から色々な概念を借りてきたものであり、論理的な思考法は漢文の力を借りて初めて可能となったのだと主張しているのです。
更に三浦朱門氏や宮台真司氏などの進める「ゆとり教育」が、却って子供から教育の機会を奪うものであって、日本の教育を荒廃さ!せるだけの「百害あって一利なし」の議論であると三者は揃って強いことばで批判なさっていらっしゃいます。
極端な意見があることはともあれ、この本の大筋を見てみると、日本の言語教育を考える上で、貴重な意見である事は否定できません。
日本・日本語・日本人
改めて日本人と日本語とは何なのかを問い直す。普段我々は横文字を格好の良いものと認識して愛用しているが、それは正しい認識なのだろうか。保守の真髄はここにあると思う。
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