万延元年のフットボール (講談社文芸文庫) 万延元年のフットボール (講談社文芸文庫)
大江 健三郎   講談社   講談社  
得がたい作品
主人公が閉ざされた場所へ行き物語が語られ、主人公がそこから出て行くところで物語りは終わる。その形は「芽むしり仔撃ち」と共通しているものがあるが「芽むしり仔撃ち」が救いようの無い悲劇の形で終わるのに対して、この作品はある種の「希望」が描かれて終わる。
9年の時を経て大江氏の中で何が変化したのであろうか。大江氏は自らの「個人的な体験」を通して、人間存在の奥底に希望の種も見出したのだと私は信じたい。主人公は最終的に、残酷で不誠実で矮小な自分自身と向き合うことになるが、それでもその中でなんとか明日への一歩を踏み出していく。人はどうしようもない状況に陥った時、この作品の結末のような「希望」を信じることで、ぎりぎりのところで救われるかもしれない。そんな読後感に浸れる得がたい作品であると思う。
読み応えのある傑作
「個人的な体験」を読んだ後で、続けて本書を読んだ。
本書は、頭に異常がある障害児が生まれてからの話としてスタートするため、
「個人的な体験」の続編であるかの様な印象を受けるが、
登場人物の名前や家族構成等の設定は微妙に違っている。
しかし、主人公に大江氏自身を投影している事に違いはない。
物語の舞台は主人公の故郷である四国の山村へ飛び、百年前の一揆をなぞる様に、
弟の鷹四を中心に村人達の暴動が起こり、その過程で封印されていた先祖たちの真実や、
鷹四と死んだ妹の衝撃的なエピソードなどが明らかになっていく。
本書はプロットが緻密で、読み応えのある傑作である事は間違いない。
だが、暴動に直接関わることなく批判的に傍観している主人公の姿は、
当時の過激化する学生運動とは距離を置いて見ていた大江氏自身と重なるとは思うのだが
「個人的な体験」と比べると、ちょっと作り話っぽくなり過ぎて、
主人公に大江氏自身を投影する事に無理が生じているようにも感じた。
でも、独特な読みにくい文体にも大分慣れたので、他の作品も読んでみたいと思う。
言霊
 読み始めた瞬間、この本の中に引き入れられてしまった。独特の文章で書かれた不思議な光景は頭の中に焼き付けられるほどの印象の強さを持っており、難解な文体もさほど苦にならず読み進んでいける、まさに日本文学屈指の名作だと思う。発生した暴動と万延元年の一揆が重ね合わされ、時系列が次第に曖昧になっていく様に感じられるのだが、そんな手法も驚くべき物だと言えるのではないかと思う。とにかくものすごいインパクトである。
 心のどこかに暗い影の差している登場人物達の“新生活”を描く作品。弟の一揆の首謀者への憧憬から起こる暴動や、折に触れては語られる生涯を持って生まれた息子の存在など鮮烈な描写には事欠かない。それらも単にイメージをごった煮にしてしまうのではなく、それぞれ関連性を持たせて構成しているようで、本から受ける印象の割にはよく空中分解せずにすんだものだとそちらの方に感心してしまったりした。鮮烈、インパクト、という言葉を先ほどから多用しているが、印象しかのこらない作品ではなく、人物の人間性の描き方もえぐみや重みがあって凄く良かった。
 値段に関して言えば、確かに文庫本には割に合わない値段だろうと思うが、単行本を買うつもりで購入すれば別に損にならない内容だと思う。ぜひ読んでもらいたい一冊。
新生活への勇気
人は程度の差こそあれ、人には言えないような痛みや苦しみ、悩みを抱えながら生きているのだと思います。そして、時々それらは当事者を危機的状況に追い込みます。一旦このような危機的状況に陥るとなかなか抜け出せません。なぜなら、そこから抜け出すには自分を変えなければならないからです。この場合、自分を変えるとはそのような痛みや苦しみ、悩みに対して正面から向き合って、それを乗り越えるということです。この小説は非常に簡単化すれば、人はどのようにして危機に陥り、どのようにしてそれを乗り越えるかを描いた作品だと思います。そして、読者も乗り越える苦労を追体験させられます。結構キツイです。個人的には、蜜の視点で読んでいたため、鷹と菜採に対する嫉妬という名の危機を乗り越えることができたかどうかは疑問です。ただそんな時、菜採の次の言葉を思い出します。「昨夜ずっと考えているうちに、私たちがその勇気さえもてば、ともかくやり始めることはできると思えてきたのよ、蜜」
「生き延び」ないといけないにしても。
読んでいると不愉快が雪の奥でも進行する腐敗さながらに押しよせてくる。そしてその不愉快は細部から喚起されている。つまり、うまいぐあいに読者は小説世界にのみこまれてゆく・・・。してやられるのである。読んでいる期間に私はこの村のリアルな夢を見たほどだ。

いつもながらの大江の大道具小道具が出てきて、しかもそれらは重層的構造的に相互作用する。太い枠組みのうちにみっしりと詰め込まれた古い文書、新しい文書――まるで蔵の奥から取り出してきて眺めるみたいな――を読んでいく感覚である。

「救済」がテーマのひとつになっている。それはとても気に入らない。蜜にはやはり出口が用意されており、彼は、いちばんさいしょ入っていた「穴ぼこ」、それからさいごに入っていた「穴ぼこ」からも、出ていくことをする。私は用心に用心してその救済や希望を拒否するつもりでいたのに、大江の強い引き縄のせいで解決や希望や期待や救済や和解の方面へずるずると引っ張っていかれた。これこそすばらしい大江の手腕というわけなんだろう。だがそれでも読み終えて私は憮然とする。蜜や菜採子が子どもたちを育てる決心をし、谷間から出てゆき、鷹への無理解を理解し、鷹の骨はS兄の骨とともに墓に入り、鷹は御霊となり・・・などなどに私は満足できない。結局は出ていって「生き延び」ないといけないにしても、だ。甘い、ちいさい、ということをどうしても思う。

個人的な体験 (新潮文庫 お 9-10) 個人的な体験 (新潮文庫 お 9-10)
大江 健三郎   新潮社   新潮社  
27歳の予備校講師鳥(バード)は、結婚して間もなく子供が生まれようとしているのにいまだアフリカへの冒険旅行を夢見ているようなモラトリアム青年である。そこに、とうとう子供が生まれた、それも頭に異常のある障害児だという知らせを受けて、バードは今後いっさいの行動の自由が奪われたと絶望し、アルコールに、そして女友だち火見子との性交渉に逃避する日々を送ることになる。その間に子供が衰弱死して責任から解放され、火見子と連れ立ってアフリカに出発することができればというのがバードの期待だったが、その土壇場にきて、彼はこうした態度が自己欺瞞であり、自分の人生を台無しにしてしまうと自覚し、赤ん坊を引き受ける決断をする。障害を軽減する手術が成功して退院できることになった子供と妻を連れたバードは、確かに自分が変わったこと、大人になったことを感じる。
戦後新世代の旗手として華々しく登場した大江健三郎は、初期作品においてまず、閉塞した社会状況に抵抗し、そこから脱出しようとする若者たちを描いたが、1964年に書き下ろしたこの長編(新潮文学賞受賞)において、状況から逃げるのではなく、積極的に引き受けるようとする成熟、自立した青年像を提示し、中期創作への道を踏み出した。現在作曲家として知られる長男光の誕生をきっかけとして生まれたこの作品は、その後の大江と光の親子関係の発展をたどっていく一連の物語の出発点でもある。(大久保喬樹)
240ページと12ページ
 バードは障害を持って生まれてきたわが子の衰弱死を願います。勤めていた予備校では失態を演じてクビになり、火見子のアパートに入り浸るようになります。最初から240ページまでの人間的に弱いバードの気持ちはなんとなく理解できたつもりでした。
 ところが240ページから252ページまでのたったの12ページで、バードはまるで別人のように人間的に成長してしまいます。章が変わっただけでいったいどうなってしまったのでしょう。きっかけすらない突発的な人格に変化に戸惑ってしまいました。
大江健三郎を読むのは初めてですが、
大江健三郎の長編小説を読むのはこれが初めてであり、
色々と新鮮な驚きを感じながら読んだ。
一般によく言われているように、技巧を凝らした文章で、やや読みにくいのは確か。
翻訳っぽい文体やストレートな性描写は、その後の村上春樹あたりに影響を与えているかも知れない。
障害を持って生れた子供から逃げ出すことばかり考える主人公に共感出来ないという意見もある様だが、
男というものは生まれたばかりの子供に対しては意外と実感が持てない物であり、
主人公のこの様な態度は非常に良く理解出来る。
主人公の渾名である「バード」とは、「チキン」つまり臆病者を暗示しているのではないかと私は思うのだが、どうだろうか?
最後の場面で、義父から「きみにはもう、バードという渾名は似合わない」
と言われる所は「きみはもう、逃げてばかりいる臆病者ではない」と解釈できる。
火見子が語る「多元的な宇宙」は、とても興味深い世界観であり、
また物語の中でも伏線としてうまく活かされている。
はじめて大江健三郎を読もうと考えている人にお薦めの一冊。
自己欺瞞から「忍耐」への、濃密な物語
主人公の鳥(バード。あだ名)が、障害を持って生まれた赤ん坊から、狡猾に、自己欺瞞を押し隠して、逃げようとし、最終的には、「欺瞞なしの方法は、自分の手で直接に縊り殺すか、あるいはかれをひきうけて育ててゆくか(p.247)」しかないことを認め、「ぼくが逃げまわりつづける男であることを止めるために」受け入れることを選択するに至る物語。

その間の鳥(バード)とその周りの人物のできごと、感情、行動が、ものすごく濃厚なんです。

障害を持つ赤ん坊、それを取り巻く人々、二日酔状態で予備校で講義して嘔吐、ア○ルセックス、外交官の出奔、過去の縊死、これから起こすかもしれない、人の手を借りた殺人。。。
それぞれが、季節が夏なこともあってか、非常に濃密な感じでかかれます。げっぷしそうな感じ。

人物、感情を表す比喩に動物を多用してたりするあたりも、なんだか得体の知れなさを加速してる気がしました。
たとえば、「病んだイタチのように狡猾」「恐怖のメガネザル」「個人的な不幸のサナギ」「こそこそと穴ぼこへ逃げたがっているドブ鼠」とか、「眠りのイソギンチャクの触手」、「棘だらけで赤黒い欲望と不安のウニ」だったり。

赤ん坊を育てていくことを決意した鳥(バード)に対して情人である火見子が言うはなむけのせりふ
「あなたはいろいろなことを忍耐しなければならなくなるわ」
が若い僕には重く印象的でした。
買いです。
初期の作品が持つ猥雑さが、障害を持った長男の誕生という出来事を経て、これ以降長くこだわっていく親子の在り方を通じてしか世間や世界と関わっていくことができなくなっていくという作者自身の在り方に収斂されていく様を記録した作品です。この作者の場合、他の作品から切り離して読んでこそ浮かび上がってくるものが多い(ある時期までは)ので、必要以上になにかと関連付けると読み誤りの原因になるような気がします。
大江をさらに読んでみたいきっかけとなった作品
大江の小説は難解である。しかし、少しずつでも大江と格闘する中で、彼の作品の持つ意味が理解できてきたような気がする。大江に関心を持ち始めて、10年以上たってから、手にしたこの作品。読み終えた後
確実に、自分の中の魂が再び生きる方向のベクトルへと向かっていることに気がついた。個人的体験以降の小説の中で大江自身の想像力による2つの実験が試みられる。1つは障害を持った子を引き受ける事を放棄してしまった場合、怪物アグイーがその代表作といえよう。また、障害を持った子どもを引き受けて行くことを決意していく場合、洪水は我が魂に及びなどのその代表作であろう。大江を知るためには、この個人的体験は絶好の入門書なのである。私は10年かかってこの作品と出会ったが、大江に初めて入門する人はこの「個人的体験」から読むことをおすすめする。

臈たしアナベル・リイ総毛立ちつ身まかりつ 臈たしアナベル・リイ総毛立ちつ身まかりつ
大江 健三郎   新潮社   新潮社  
新しい形式を喜ぶ
どの細部も緻密に構成された小説を久しぶりに線を引きながら読んだ。それほどの佳作である。作者は珍しくこの作品を嬉々として書いている様子でる。構想のヒントは小説のはじまり近くにある。「小説も、主題というより、新しい形式が見つかれば書くつもりです。」という主人公。マルカム・ラウリーによる、フィッツジェラルドの小説のシナリオ化に影響を受けて、自旧作をプロの小説化としてシナリオ化する過程を書いた新しい形式の小説。これは大江健三郎の一連の作品の変奏曲である。
この小説の主人公は、「書いて半年のうちなら、どこでもそらで引用できる」ほどエラボレーション(書き直し)をする小説家(初めてKenzaburouとも記される)で、女優サクラとプロデューサー木守の3人をめぐって物語は展開する。3人の人生に、想像力と新旧東西の文学を見事に織り込んだ、小説好きには是非勧めたい1冊である。

彼岸の小説っていうか、僕には何の関係もないお話
 日本の純文学?でも、マーケティングやエンタメ的なことを考えずに書ける立場の人って、そうはいない。ノーベル文学賞作家である大江健三郎は、その数少ない一人だと思う。それって貴重なポジションであるとは思うけど、だからって、その書かれた物が他の文芸作品に比べて秀でているか、際立っているかって言えばはなはだ疑問だ。つーか、熱心な大江ファンでない僕にとって、ここに書かれていることの事実関係は分かるけど意味はまったく解んない。まぁ、僕自身の読解力が乏しいっていう資質に起因することなのかもしれないけど...いずれにしても彼岸の小説っていうか、僕には何の関係もないお話だな、って感想である。作者の中で問題系が閉じている感じがものすごくする。それでいて、それを良しとするというか、例えば、これまでの大江を知らない読者には解ってもらわなくてもいい、っていう傲慢さっていうか。インテリとか進歩派とか戦後民主主義を僕は否定する訳じゃないし、ある種、判官びいきなシンパシーもあるけど、そういったパラダイムがすでに終わっちゃっているっていう認識があまりに欠如してるっていうか、ポジションが確立されているから甘んじているっていうか、一種のユルさを感じるんだよな。テメエのことしか考えていない(いいよ、元々そういうポリシーの人ならね。でも、そうじゃないじゃん)。タイトルの訳わかんなさなんて表面的には川上未映子と変わらないけど、全然過激なところ、新鮮なところはなくて、難解なことやってればポジションを保てるっていう一種の安全地帯の中での作品に、今回も収まっちゃってると思う。「新しい人」であり続けることって、いかに難しいことなんだろう?そんな感想である。作者の背景や過去の作品を色々理解出来ていなきゃ成立しない作品なんて、やっぱり脆弱すぎるんじゃないの?
からみつく
例によって、虚実皮膜の語り方で、奇妙な物語が展開される。
全体のモチーフは、グロテスクな児童ポルノであるところの「アナベル・リイ映画」。
冒頭から子供の扮装をして失敗したかのような白塗りの小さな年寄り(木守)が出てきて、
話の気持ち悪さを彷彿とさせる。
著者の筆は、生々しい。物語は、若いとき、中年時代、老年期に分けて語られるが、
若いときの瑞々しさがあるぶん、ヒロインのサクラや木守の老け方の生々しさが際だつ。
サクラ、木守は何年もある映画(の製作)に取り憑かれている。
その映画は、ある種、神話的・呪術的な雰囲気を持つものだが、
それが彼らの独特な歳の取り方とともにだんだんと発酵していき、
最後には何とも「森」的というか、独特に力のある演出にたどりつく。
著者ならではのねばっちこい空気がからみついてくるような読書となった。
サクラの「アーアー」というこれまた著者らしいおかしな表記の声が、印象に残った。
大江晩年のお終いの2冊のひとつと言うが・・
・・元々ぼくは、大江作品の熱心な読者では無かった・・けれども初期の作品群や「政治少年死す」などを少ないながら愛読してきたつもりでいる・・そして本作は?
正直大江の「私小説」的な語り口で進められた文体に誘えながら何とか胸に期待感を持って読み進んだのであるが・・・
雑誌「波」での大江のインタヴューやNHK「週間ブックレヴュー」などを参考に著者大江が、この作品に並々ならぬ意気込みを持って書き終えたのは解かった・・
けれども、実際にいざ「読了」してみると「感動」とかとは全く無縁なともかく読了したという「達成感」とも違う一種の「義務感」のような「空虚」しか残念ながら残らなかった・・・
大江がこの本を書いた動機は、なるほど理解出来たが、それを読者へ提示する意味が今ひとつ理解出来ないのである・・
だから、これからこの本を読まれようとする読者へ推奨する言葉が、どうしても見つからないのである・・
大江文学の自伝的な要素を含んだ「フィクション」であるこの本は、どうやら著者の自己満足の域に終ってしまって遂に「普遍性」をつかみ得なかったように思えてならない・・・。
面白い、でもこの先は我々の思索に委ねているのか?
30年前の筆者も友人たちも情熱を持ち、まだ先があるものとして仕事に対し意欲的に
臨んでいたその当時に、チャレンジした映画作成。
中世の反乱を描いたコールハースの反乱とそれにまつわる夫人とジプシーの運命的な
寓話を、かたや四国の森の中で起きた村の一揆と女性達の芝居に対してテーマの共通性を
見出し、ひとつの作品に仕上げていこうとする軸がひとつ。
かたやポーの詩と主演予定であるサクラの幼少の時の体験からくるロリータ的性的錯綜の
傷という軸が交差していく。

複数の要素を織り成しながらくみ上げていく作品を読むには知的好奇心と読書の喜びを感じる。
だが、これまた性的錯綜の事件の上に頓挫してしまった映画制作を70歳を過ぎ、ひとりは
既に病気をしている彼らが、30年前とは異なる出口に向かっているという気持ちで今度こそ
実現していこうとする。
そしてその途中で唐突に終了してしまうのだ、これが。

この先のことは我々でどうとでも考えるようにとの示唆であろうか。
それでもいいけれども、やはりもう少し続けて欲しかった。
ここで終わる意味を考えてしまう、作品である。

取り替え子(チェンジリング) (講談社文庫) 取り替え子(チェンジリング) (講談社文庫)
大江 健三郎   講談社   講談社  
衰えを感じさせない力作
大江作品を読むのは「個人的な体験」「万延元年のフットボール」に続いてこれが三冊目になる。
「万延元年−」から33年経ているにも関わらず、ほとんど衰えを感じさせない力作。
本書は大江氏の義兄で映画監督の伊丹十三の自殺が題材となっており、事実の部分とフィクションがごちゃ混ぜになっているのは、大江氏の作品ではいつもの事なのだが、初めて大江作品に触れる人は面食らうかも知れない。
小説の中では、大江氏自身も伊丹氏も別名で書かれており、他にも様々な有名人、文化人が別名で(又は名無しで)登場し、それらが誰の事なのか推理する楽しみもある。ただ、そのうちの何人かは批判的(あるいは敵対的)に書かれており、この様に虚実が入り混じった小説の中で実在の人物をこき下ろすという事は、果たしてフェアなのだろうかと感じたのだが、どうだろうか?
本書を手に取った人は、誰もが伊丹氏の自殺事件の真相や動機が明らかになる事を期待して読むと思う。そして、少年時代の四国での事件がどうやら深く関わっているらしいという期待を抱かせながら、最後は予想もしない意外な方向へ展開していき、読者の期待を裏切る事になる。結局本書は伊丹氏の死を題材にしたフィクションであり、そして作品としては実に秀逸かつファンタスティックで、事件の真相などはどうでも良いという気分にさせてくれる。

読みやすくなった大江文学
今までの大江文学に対する私の問題は、彼の文章が読み難い事でした。それはそれで、大江さんの特徴であると味わってきましたが、「取り替え子」に措いては今までのように文体に支えるような感じがありません。このことだけをとっても、今まで以上に沢山の読者に読まれることになると思います。
内容も理解しやすくなって、共感を呼びやすくなっています。これは親友であり、義兄である伊丹十三の自殺による衝撃から大江さんが立ち直るために書かれたように思われます。ゆかりさん(大江さんの奥さんで、伊丹十三の妹)の視点で書かれているところなど、女性としての兄の死の受け止め方が、「チェンジリング」に照らし合わせて行われている点で、この物語が奥深いものになっていると思います。

大江健三郎作品で一つを選ぶとしたらこれです
これまで、大江作品はそんなに好きではなかったのですが、この本を読んでから、私の中で、これから新作を待つ作家の一人に加わりました。

なぜ自殺するのか、なぜ生きつづけられるのか、そんな問いの答えを探す小説のように感じられました。


死者の奢り・飼育 (新潮文庫) 死者の奢り・飼育 (新潮文庫)
大江 健三郎   新潮社   新潮社  
死と性の奥底に
 死や性について小説内に実際に存在しているかのように表現されていて、その質感や感触までが伝わってきます。ですが、それらすらも表面上のこと過ぎず、「他人の足」に見られるような隔絶や「飼育」での少年の成長、そして「人間の羊」のとある人物に対するすさまじい嫌悪感といった人間のもつかすかな、しかし決定的な心の動きを心理と行動の両面で書き出しています。
 筋だけで言えば好みではありませんが、ただただその力量に感服しました。
難しいけど、面白い
『死者の奢り・飼育』です。
ノーベル文学賞の大江健三郎にとっての出世作である『死者の奢り』、芥川賞作『飼育』を含む短編集です。

大江というと、左がかっている、ということで毛嫌いしている人も多いかもしれません。
しかし、この作品集は、特に右とか左とか関係なく、普通に人間というものを掘り下げて描いていますし、妙に哲学的で難解ということもありません。少なくとも、どういう話の流れなのか、はちゃんと分かります。作品自体が、単純に読んで面白いです。
『死者の奢り』は大学生が死体処理室のバイトをして苦労する話。
『飼育』は、空から落ちてきた黒人兵を村人達が「飼育」する話。
『人間の羊』『他人の足』も良いです。

文章は、かなり硬くて読みにくいですし、各作品の舞台が戦後ちょっとくらいなので、戦争の影を引きずっている部分は多々ありますけどね。

充実した短編集
タイトルである「死者の奢り」「飼育」はもちろん、それ以外の四篇も見事に引きこまれました。憤り、悲しみ、絶望、空虚といった複雑な人間の感情がそれぞれ見事に織り込まれており、人間のちょっとした仕草や表情や情景に対してたくみな比喩を用いています。例えば「汗」ひとつを表すにしてもとてもねちっこいし、いやらしい。身体に関する描写は嫌というほど細かく頭にまとわりついてくる感じです。そしてそれぞれの読後にスッキリといった気持ちはとてもじゃないけどおきない。じわじわと内面深くに響いてくる。

全体を通じて、戦争やアメリカ兵に翻弄されるストーリーが主体ですが、それは著者自身の体験であり、同時に何かしら屈辱を感じさせる重たい雰囲気は、今ではうかがえない敗戦にうちひしがれた社会とそこに生きる人々を見事に体現しているものと思われます。



全六編全てが面白い。
芥川賞の候補作品になった『死者の奢り』と、芥川賞受賞作品である『飼育』を含む短編集。
初版は一九五十年代に出版されたということもあって言葉遣いが少々古いところもあるが、全く気にならないレベル。

一つ一つの作品は短編で総ページ数もそんなに多くないが、とにかく読み応えが凄い。
全体的に重く、静か。
読み終えた後に爽やかな気持ちになった作品は一つとして無いが、「嘘っぽさ」も全く無い。
これを学生の頃に書いたなんてほんと凄いとしか言いようがない。

著者自身の思想は嫌いという人の中にも、この作品自体は面白いと感じる人はたくさんいるんじゃないかなあと思う。読まず嫌いは勿体無い。

濃密な短編集
佳作6作の短編集。
短編集だし、本自体も厚くないし、一気に読めるかと思いきや、
のっけの「死者の奢り」から大学の地下室で標本死体の移し変えのバイトの話でズーン。

タイル張りの黴臭い地下室の水槽にアルコール漬けの死体がプカプカ浮かんでる
様子を読んだ瞬間に気持ちが一気にドーンと暗くなったけど、生や死、虚無感や徒労感が
鮮明に描かれていて、特に最後の「喉にこみあげて来る、膨れきった厚ぼったい感情」とか
の表現は詩的で秀逸だと思った。

戦後十年頃に書かれた作品群なので、どの作品にも戦争の色は濃く出ています。
作品のテーマが虚無感、侮蔑、裏切り、傍観、誇り、欺瞞などどれも濃密で、
1作品読み終わるごとに、ふーっと溜息が出て、読み終わるまでに結構時間がかかりました。

芽むしり仔撃ち (新潮文庫) 芽むしり仔撃ち (新潮文庫)
大江 健三郎   新潮社   新潮社  
体感したような気分になった
こんなに自分の五感が、活字に乗せられていくのを感じた事はないかもしれません。
閉じ込められた小屋の中での小便の匂い、病気で死んだ動物達が山積みされている光景と、誰も語らないけれど蔓延するのだろうという恐怖、干し魚と野菜と米で作った雑炊の味。

最初から最後まで、ずっと怒りながら読んでいました。閉鎖された環境や、人が人を殺すのが珍しくない時代には、人間同士のルールはこんなにもねじ曲がってしまうのか。

主人公の少年達は子供であるが故のたくましさも持っているけれど、子供であるが故に、どうしていいかわからず大人を見てどうしても安堵してしまう面もある。その度に、騙されるな、もう信じるな、と思っていました。
文学はこれほど面白いのか!
19年も前のことなのに、
読み終わったときの興奮を
今でもありありと思い出すことができる。

文学はこれほど面白いのか!と震えるような気持ちで思った。

純文学の面白さを堪能したい方に、
ぜひオススメしたい。

大江文学を読破しようとお考えの方も、
まずはこの1冊からどうぞ。
大江文学の入門書としてもオススメ。

完成度の高さに感嘆
大戦末期、感化院の少年たちは山奥の村へ疎開させられるが、そこで疫病が発生したため、
少年たちは村人達から見棄てられ、山奥に閉じ込められる。
疎外された少年たちは、朝鮮人の少年、疫病で母を失った少女、山狩りから逃れた脱走兵らと隔離された村の中での束の間の自由生活を獲得し、厳しい戦時下での不思議な理想郷を実現したかに思えたが・・・
少年達は大人たちの身勝手な都合で束縛されたり、見棄てられたり、また時には懐柔させられようとする。
そして、村の大人たちの狡猾さ、残酷さ、理不尽さが強烈に印象に残る。
これは、戦争という狂気によって作られたものなのか、それとも利己的な人間本来の姿なのだろうか。
私は、戦時中に少年時代を過ごした大江氏が、戦時中に感じた大人たちへの怒りにも思えたのだが、どうだろうか。
ちなみに本書は大江氏が23歳の時に発表された処女長編であり、その完成度の高さに感嘆した。


タイトルがすばらしいです。
 この小説でいちばんすばらしいのはタイトルです。意味は小説を最後のほうまで読めばわかります。二百ページほどの短めの長編ですが、なかなかに読み応えのあるものになっています。ほとんどリアリティはないらしく、一種のファンタジーになっているらしいのですが、そんなこと当時を知らない私にとってはわかりようがありません。
 大江健三郎がデビュー当初からモチーフにしている、「内」と「外」の話です。閉じこめられたのか農村で自由の王国を建設する子供達。閉ざされているのに彼らは自由と感じています。しかし、いざ外にでて大人達と邂逅すると、彼らはもう思い通りにはふるまえません。大人たちの力によって挫折し、涙を流します。外にあるのに自由はないのです。閉ざされた空間と閉ざされていない空間、私たちはそのふたつの概念を前にすると自由という概念さえ失ってしまうのです。
面白いよ
確かに、大江健三郎はいまや朝日系メディアと中国・韓国以外の誰にも興味を持たれない存在かもしれない。確かに、いまや方向転換も出来なくなった六十〜七十年代ファッション左翼の田舎者かもしれない。確かに、「私はノーベル賞、ノーベル賞、ノーベル賞」と振りかざす老いた姿はイタイかもしれない。
これはもう「学生作家」の運命というか、私の見る限り、社会人経験もなく小説家として成功する人には「イタイ」タイプが多い。世間知らずだし自己陶酔型だ。こういう人たちは社会経験がないので大抵すぐにネタが尽きる。大江健三郎の場合、尽きたネタを補うべく「政治」に行き、行ったら「陶酔」してしまったのだろう。当時は左翼文化人をやってそれらしい発言をしていれば、高邁でエライ人のように扱われた。人間、チヤホヤされたら嬉しい。「正義」故にチヤホヤされればさらに陶酔する。「正義」はあまりに気持ちが良いので、一度それで売ったら最後、二度とそれを手放せなくなる。
さて、大江健三郎について最も注目に値するのはタイトルの上手さではなかろうか。「タイトルが絶品」は故山本夏彦さえ指摘なさっていたことだ。この小説はタイトルも抜群だが中味もなかなか面白い。毛嫌いせずに、この一冊だけはお読みになってみてもいいかもしれない。短編だし時間も取らない。若き日の大江健三郎が確かに才能のある小説家だったことが分かる。

性的人間 (新潮文庫) 性的人間 (新潮文庫)
大江 健三郎   新潮社   新潮社  
買いです。
もう何度目かもいつ以来かも判然としない読み返しの後で、いま自分のなかに残っているのは漠然とした手触りだ。はじめて読んだ時の解った感じとはまた違う解り方で、いまぼくはきっと理解しているのだろうけれど、構造とか構成とかを超えたところでそれ以上分解できないイメージとして自分のなかにたしかに残っているものがあることだけは確かで、それがつまりかつて世代の代弁者と呼ばれ、その世代とは違うぼくのような者にも世代や時代を代弁しているように機能していることがつまり、読み継がれるということだと思った。

変です。
私が女だからそう思うのかもしれませんが。
文体などから考えると文章能力はある作家さんだと思うのですが、物語の内容が変の一言です。
異常な性倒錯者という印象です。
それとも男性って実態はこんなんなのでしょうか?
また掲載されず・・
青春小説の極北セブンティーン。

私が読んだ版では芽むしり〜と一緒に収録されており、性的〜は併録されてなかったのですが、この作品を読んだときの衝撃は忘れがたく、感想をアップした次第。

主人公は、自意識過剰の学生、「グミチョコレートパイン」の健三のように肥大化する自意識と、ち、ち、ち、ちっぽけなおれとの間でさまよっている。

ある日かいた赤っ恥。そこからはじまる日章旗への疾走。終始、信じられないほどのドライブ感をもってぐいぐい進んでいく文章に圧倒され、ジェットコースターの角に登り詰めたときのように一気にラストへと急降下してゆく・・
青春時代は非常事態といったほむらひろしの名言をこの一作でかみ締められる。
間違ったアクセルとブレーキでどこへ向かおうというのか。
けどけどけど、その軌跡に魅せられるんだ!

しかしこのモデルにされた少年こんな風に描写されてショックだっただろね〜。

この丸尾末広のカバーで見てみたい掌編はゴンブローヴィチの作品にも似ているが、彼の作品は小説の態をなしてないので、本作のほうが数段上。

読んだ後は「こ、こいつが(←この作品では受賞してません。念のため)ノーベル賞。ノーベル賞ってのはあれだ、非常に頭のいい人が書いた小説に何か差し上げるもんだと思ってたが・・文章で現実をどれだけぐらつかせるかがポイントか。そう、つまり狂気への招待状!マルケスもクンデラも川端もだ!ならみ、三島や筒井にあげたっていいじゃん〜・・」
とノーベル賞への理解も深まりました。
『セブンティーン』!!
『性的人間』『セヴンティーン』『共同生活』の3編を収めた中編集。

表題に惹かれて面白そうだと思って読んでみたけど、表題作の『性的人間』と『共同生活』は個人的にはあんまり好きじゃなかった。

それよりも『セヴンティーン』、これだけでいい。どこの集団にも帰属できない人間の不安、それが解消された時の喜び・・・・・面白い。

続編の『政治少年死す』は、当時発禁処分になって未だに出版されていないらしいが、ネット上で公開されているのを読んだ。

たしかに内容的には1960年頃に出版するのキツいと思う。が、やっぱり面白い。
映画化して欲しいなあ。

青春期の闇を描いた作品
3つの短編が収められている。「性的人間」は人間の根源を描こうとしたチャレンジングな作品。廃退の先に希望があるということはなんとなく、生理的に理解できるが、ここまであなた達はやりますか。やれますか。と問いかけられている。中途半端ならやらないほうがいい。今までの生活を行なっていたらよい。特に後半が考えさせられる。「セヴンティーン」は少年が右翼化する、つまり変化する瞬間を切実に描いている。本当にこんな瞬間があるのだろう。「共同生活」は前記2編に比べたらちょっと落ちるかな。ただ「性的人間」「セブンティーン」は高校生男子必読であり、本書で人生を変えられると思う。

さようなら、私の本よ! さようなら、私の本よ!
大江 健三郎   講談社   講談社  
不思議な感動と味わいがあります
「取り替え子(チェンジリング)」「憂い顔の童子」からお話は続いています。この3冊は連続した小説ですが、それぞれの本で主題は微妙に異なり、最後のこの本で、作者の希望につながって終了するようです。様々なことについて描かれていますが、主に、生きていくことと死ぬこと、について書かれた本です。一章一章に不思議な味わいがあり、読後には独特の余韻があります。
老境にして衰えず
 主人公の老作家、長江古義人(ちょうこうこぎと)は著明なノーベル賞作家と設定されており、最近の2作品同様、作者の分身であることは明らかである。彼は、幼い頃からの友人で、米国から急に帰国した建築家、椿繁と北軽井沢の別荘地で隣人としての生活を始める。椿のもとには若い男女の共同生活者が合流し、やがて彼らが東京でテロを計画していることが長江の知るところとなる。このため、長江は自らの別荘に軟禁状態におかれる。物語は、この奇妙なテロ計画を縦糸にしながら、9.11事件、三島由紀夫事件、浅間山荘事件などの政治的なできごとや、作家のこれまでの文学活動に関する、会話や回想の形を取った、さまざまな記述を横糸にして進展し、悲劇的な結末に向かう。
 物語は精巧に書かれているが、展開に破天荒なサプライズはない。ストーリーで引きつける意図で書かれた作品ではなく、提起されたメッセージはあくまで文学的である。同時に含まれる政治的色彩を帯びたメッセージがどんなインパクトを有するかは見解が分かれよう。しかし、私小説的で教養主義の香りのする作家の語り口から、かってのような難解であまりに抽象的な表現は影をひそめていて、比較的読みやすい言ってもよいほどである。これも作品のテーマの一つである老境にふさわしいものであろうか。また、さまざまな事件や自身を含む何人かの作家と作品について、彼の観想を読みとることができる。この作家に親しんできた読者にとっては興味のつきない一面である。若い読者にとっては、作家の仕事の全体像を現在から過去に向かって鳥瞰するヒントがちりばめられている一冊ではなかろうか。

沖縄ノート (岩波新書) 沖縄ノート (岩波新書)
大江 健三郎   岩波書店   岩波書店  
筆者の左翼的思想甚だしい愚弄本
事実無根も甚だしい内容。
沖縄の集団自決について、当時座間味島の守備隊長だった梅沢少佐らが住民に対し自決を強要したという内容はまったくの嘘である。この件は今も梅沢さんらが著者の大江氏、岩波書店を相手に裁判を続けている。大江氏はこの本は嘘だったというのを潔く認めてほしいものである。

無題
この本の評論とはずれるます。沖縄生まれ、居住者です。小さい頃から、曽祖母に戦争の話しは耳にタコができるほど聞かされて育ちました。親類が、実際に集団自決した事も。戦争を知らない私達が議論するよりは、実際に証言者の記述を見てから意見を述べてほしいです。沖縄南部の平和資料館には、たくさんの証言文集が保管されています。ニュースや風評だけでしかこの本を語れない人、【国益】という言葉で事実を曲げようとする人、何か感じてくれたら幸いです。
国連からも圧力が
控訴審も大江の勝ち。戦争責任を認めない哀れな連中はいよいよ追い詰められる。

本当に読んでるのかな
裁判を知って勢いで書いているように見えるレビューもありますが、本当にこの本を全部読んでるのかなあ、と思ってしまいます。

沖縄と本土との関係は、今でこそ有名な芸能人たちが普通に活躍していて単なる南の県といった感じですが、歴史や戦争中の扱いを考えても、どう捉えて良いのか分からない複雑なものです。簡単に答えが出るはずもない。大江の煮え切らない文体は、その分からなさを受け止めたものだと思うし、単なるジャーナリストではない作家の作品としてそれは成功していると思う。
今の若い作家でこういった本を書ける人は少ないでしょうね。
沖縄が日本を揺るがす
「日本人とはなにか、このような日本人ではないところの日本人へと自分をかえることはできないか」
この問いの答えを見出すべく、筆者は沖縄を真剣に真摯に向き合い、沖縄に揺さぶられていきます。日本語は沖縄語の前に拒絶され、天皇の権威や存在も沖縄・沖縄人の前では曖昧化されます。日本列島で当然とされていること・ものの存在が次々と懐疑的なものに変質していきます。そのとどめは沖縄が生んだ、内容の稀薄な「本土」という名称でしょう(223-224頁)。
全体として雑誌や新聞の記事を基に沖縄と沖縄に映し出された日本を筆者は描き出しています。これは労作ではありますが、当事者との対話から文を書いていくべきではなかったでしょうか。沖縄の知識人だけでなく、沖縄に暮らす庶民の生の声を直接汲み取ることや諸問題の当事者との真剣な討論を行うということも重要であったと思います。筆者が導き出した考えには私は同意できるものが多いです。それでもそれらの中にはやや客観を欠いており、筆者の主観が先行している感じがします(例、「沖縄に属する日本」など)。
本書の刊行は1970年であり、当時と現代における問題意識は、似ているかもしれませんが、全く同じではないでしょう(「沖縄独立」は国会のテーマにはなっていない。2008年8月18日現在)。本書は歴史資料になりつつあるかもしれませんが、しかし、世の中の出来事、物事、そして当然と思い込んでいる自分自身の姿を見つめなおすきっかけを与えてくれます。今でも思考変化を促す力を『沖縄ノート』は秘めていると思います。特に、人類館事件(186頁)の記述は植民地主義(「日本に展示される沖縄」)とジェンダー問題(「鞭持つ男に罵倒される沖縄の女性たち」)へと思考空間を広げてくれました。

読む人間―読書講義 読む人間―読書講義
大江 健三郎   集英社   集英社  
ノーベル賞作家の本の読み方
大江さんが池袋ジュンク堂書店で毎月1回6ケ月にわたって行った連続講演が元になっている。大江さん自身は「読む人間として生きた」と、子供時代からの読書体験と感動、翻訳作品を読む際に原文と辞書を横に置いての精確な読み方、3年間1人の作家を集中的に読むこと・併せてその作家に関する良い研究書を1冊読むこと、等を実例を挙げながら楽しげに語っている。といっても例に挙げているのは、ブレイクの預言詩やダンテの神曲等で、私にはどれほで理解できたかは分からないし、読書のハウツーについても簡単に真似ることはできない。ただ大江さんが「書く人間」として真摯に読書を続けてきたこと、また言葉と文体を大切に扱っていることはよく分かった。本書は単なる講演記録ではなく、周到な講義準備と出版に際しての大幅な加筆があるようで、密度の濃い内容を易しくユーモラスに述べている。
大江健三郎氏の読書観
本書で大江健三郎氏は、「ある時期に古典を読むことを始め、そこから枝葉をひろげて読み続けながら生きてきた、そういう長い日々、読書にはどのような効果があったか、とくに小説を書く人間として、職業にどのような影響があったかということ」について述べています。

実際にご自分が影響を受けた作品を推薦、引用し、どのような内容なのかを事細かに説明しており、翻訳本の読み方や辞書の使い方から、引用の仕方までご自身の読書に対するこだわりを書かれています。

しかし、古典には疎く、また文章を読むときに結論から考えてしまう私には読みづらかったです。
雑誌で再読を薦める本として紹介されており、ノーベル文学賞作家の大江健三郎氏はどのような本を書くのか興味があったために読んでみましたが、再読を薦めているのは一部分であり、その部分にはある程度共感できたものの、大江健三郎氏の読書観にはあまり興味を感じませんでした。
古典が好きな方や、大江健三郎氏の文章のファンの方は楽しめる内容なのかもしれません。

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