沈黙 (新潮文庫)
遠藤 周作 新潮社 新潮社
壮絶な歴史モノとして・・・
鎖国した日本において、キリスト教を拡めようとした司教の物語です。
信仰心と慈悲の間で揺れ動く人間の心模様が印象的です。
かくも生真面目な生き方は現代的ではありませんが、ちょっと昔の生き方としてはある意味、共感します。
間違いなく戦後文学の代表作の一つ!
読み出すと止まらなくなった。一気に読み切った。
断っておくが小生はクリスチャンではない。
遠藤周作氏は芥川賞受賞後の37歳から、結核で2年もの入院をしている。
手術で7本の肋骨と肩肺を失ったが、「私が得たものは肩肺よりも、もっと大きなものだった」と語られている。
それは何か?
命に及ぶ大病との格闘を通して、悩める人や弱い立場にある人への温かな眼差しを獲得したということだろう。
その生死の極限から蘇生した著者の魂が綴られたのがこの「沈黙」だと思う。
残酷で非道な“穴吊り”という刑に処せられた切支丹の農民を救うため、司祭フェデリコは遂に”転ぶ”。棄教したフェデリコは岡田三右衛門という名前を与えられ、しばらく長崎に留められる。弱虫で臆病で卑劣、何度も転び、フェデリコをさえ売った五島出身の農民キチジローは、それでも岡田となったフェデリコのもとへさえ、告侮を聴聞してもらうためにやってくる。
この小説の終わりは「切支丹屋敷役人日記」で終わる。
この「役人日記」によると、江戸の牢屋敷に移された岡田の中間として”吉次郎”が共に住みんでいることが記述されている。吉次郎は首にお守り袋に入った切支丹の本尊を隠し持っているのを見つけられて問いつめられている。岡田の、いな、フェデリコの信仰は破られていない、キチジローの信仰も破られなかった。そして、岡田三右衛門ことフェデリコは日本に来て三十余年、江戸へ出て三十年の六四歳で病死する。
ドフトエスキーが「悪霊」で描き出したように、多くの切支丹を殺し、フェデリコをも棄教させた、洗練された口調と無表情の顔をもつ、井上築後守を初めとする権力者達こそ、精神の尊厳を失った哀れな人間だったのではないか。
クリスチャンとか仏教徒とか、そんな狭隘な批判を越えて、
この「沈黙」は間違いなく戦後の日本文学の代表作の一つだと確信する。
「信じる」とは?
この本を初めて読んだのは高校生の時でした。
吸い込まれるように読んだ記憶があります。
「信じる」とは何なのか。
「信じる」ことによって人は救われるのか?
戦争には,その背景に宗教観の問題も含まれています。
人間が神によって生かされているのであれば,なぜ,戦争なんてするのでしょう?
神とは「自分こそが正しい」ことを武力をもって照明するような人間くさい存在なのでしょうか?
この本は,「信じる」ということの深さをまざまざと見せ付けてくれる一冊です。
私は誰かを信じぬけるのか?
恋に迷った時に読んでみるにもお勧めの一冊です。
また,この本を片手に長崎を旅してほしい。
外海から長崎市内へ海を眺めながら旅してほしい。
重いしやや難解?
重い。重いです。実在の人物をモデルに書かれた小説。
時は江戸時代、島原の乱が鎮圧されて間もない頃。日本に潜入したポルトガル司祭ロドリゴは背教を迫られる…
私は171ページと191ページの言葉が印象的でした。気になった人は読んでみよう!(笑)
キチジローがキーマンです。
本書と対をなす『死海のほとり』を読むと理解が深まる。
いちどは読むべき名作。
主人公と一体になって、読み手のわたしも苦しんだ。
読後、10年以上が経過したのに、
この小説を思い出すと、いまでも胸が痛む。
こういう作品を、真の名作と呼ぶのだと思う。
侍 (新潮文庫)
遠藤 周作 新潮社 新潮社
忠実な信仰心
この本は本当の宗教とはどういうものかを考えさせられる本です。遠藤周作はキリスト教ですが、本当の宗教というのは見かけがキリスト教だとか、仏教だとかが分かるものではなく、人間の心からの信仰だと感じました。日本人という容易に他宗教に関心を持たない民族でさえ、心から認識したキリストの言葉には、かなわないのだと気付かされました。本の中の時代のからすでに、キリスト教を所属しているものの中には、忠実に世界にキリストの信仰を広めようとするのではなく、富や名声などの元にキリスト教がある時代だったことも垣間見える小説だど感じます。
信仰と忠義故に人は苦しむ
連れて行った宣教師には強烈な野望が
そして連れて行かれた侍には望郷の念が
そして侍は南米の惨劇とスペイン・ローマでの政治的な暗闘を目撃し
故郷に帰ってきても憂鬱な日々を過ごすことになる
日本にはキリスト教が行き渡らない風土があるっていうのが
主人公の宣教師とそれに反対する宣教師から語られる
そういう日本の風土へのとまどいと疎外感みたいなのが
著者の日本社会とキリスト教へのとまどいなのかなあ、と
とりあえずノーベル文学賞をもらわなかった、という事実は逆に言えば
遠藤周作への最大の賛辞と評価なんじゃないのかなあ
キリシタンを思う
「反逆」同様”人間”を温かく見守る遠藤さんならではの心に響く時代小説だが、この作品でのキリスト教ほど私の心の中に深く染み入ったものはかつてなかった。宗教の事にはうとい私にもその必然性の程がよく分かり、キリスト教みのならず「宗教」というものの重要性を再認識できる大変勉強になる作品だった。
この小説を読んでいくうちに、第二次世界大戦中、上司の命令でアメリカ兵の捕虜を殺害しようとした徴兵が、後日東京裁判で死刑となった「私は貝になりたい」という物語を思い出した。
そんな時代
日本侍のかつての姿・・きっと名も知れずにたくさん
存在したであろう、この長谷倉のような侍の生き様に
この小説を通じて触れることができたのは、とても
貴重な体験のように思われた。
狭い日本の、さらに狭い狭い土地で、
つつましく従順に生きてきた長谷倉に課せられた使命・・。
海を渡り、ローマ法王にお目通りをするという、
大きく苦難を伴う旅・・。
そして、共に旅し、案内役となる「ベラスコ」という
野心あふれる宣教師。
手柄を上げ、日本の司教となれるのか?
生々しいベラスコの心の内、感情がリアルだった。
宗教の意味とは・・??
仏教とキリスト教・・相反する思想。
キリスト教へ帰依しなければお役目は果たせない・・
しかしそれは、祖先や残してきた家族や仲間を裏切る
行為となってしまわないか?
長い旅路の末に待ち構える運命は、
「そんな時代なのだ」と割り切れるものなのか?
とても重みのある作品だと思う。
侍の生き方に憧憬を持つ
この感覚を持つ時点で私は日本人なんだと思う。支倉の最後はあえて描かない遠藤の書き方に物足りなさを覚えるのも、そういう感情がわいた故なのだ。処刑が決まり、与蔵と最後の別れをする場面。『侍はたちどまり、ふりかえって大きくうなずいた』支倉。ここに日本人としての生き方が凝縮されている。『生きた・・・私は・・・』とつぶやいて火あぶりにされてベラスコの最後とは、情熱と黙従というキリスト教と日本人の生きるスタイルが反映されている。侍は全ての運命を受け入れ、ベラスコはキリストにどう使えるかという観点から死ぬ間際の振る舞いをした。侍の徹底的な生き様にしびれた私は、やはり日本人なのだろう。
侍のたどった航海は、人生の終着点へと向かう旅路だった。政局の波に飲み込まれ、最初から決まった轍の上を走った。それに気づかされた時には既に遅し。それから侍はそれを自らの運命として受け入れた。抗いもせず、自らの祖先と、その土地、一族を背負う男の姿だ。このような男が昔は大勢いた。それを振り返る歴史書でもある。
著者がこの書籍で訴えたかったことは、日本への畏敬なのではないかと思う。11歳で洗礼を受けて、キリスト教徒として生きた遠藤は、少なからず日本に対して尊敬の念は持っていたはずである。解説でゲッセルが語っている通り、侍と同じくキリスト教に改宗せねばならない理由も、著者にはあった。そうした環境にあったため、キリスト教の利点と同時に、日本が本来持つ、宗教的な独特さも体感していたはずだ。遠藤の心の奥底にあるキリスト教と日本人の心の葛藤を物語っている小説だとも解せる。
ふと、行き詰まり、自分の人生に悩み、無意味としか感じられなくなった時に再び読みたい。無常な世ではあるが、それを受け入れる心の『豊かさ』を持ち合わせている人種なのだと再認識させられる書籍である。
イエスの生涯 (新潮文庫)
遠藤 周作 新潮社 新潮社
イエス・キリストの無限の愛。
遠藤さんは、お父様、彼らをお許しください、彼らは自分たちが何をしたか、わかってはいないのです、というイエスの言葉を、お父様、彼らをお許しください、彼らは愛し方を知らなかったのです、と解しておられた。
そもそも、愛、とは何なのでしょうか。目には見えないもの、実際には役に立たないもの、そう遠藤さんは言っておられたような心持がするのだが。
障害を抱えている私にとって、出来ることなら、この障害から逃れたい、「普通」になりたい、という思いがあることは否定できない。しかし、もし、本当にイエスのような奇跡を行う方が、目の前に現れ、自分の障害を取り除いて下さったら、私は本当に幸せになれるだろうか? 生れ落ちてからこの方、自分はずっと、障害を背負ってきたのに、それを、「暴力的」、と言ってもいいほどに取り除いてしまったら、「なんだ、僕をバカにしているのか! 苦しんだ僕の二十何年は、いったい、なんだったのか、僕の時間を返せ!」と、かえって憤慨してしまうかもしれない。それよりも、遠藤さんのおっしゃるとおり、僕の苦しみを一緒に苦しんでくれるイエスのほうが、よほど愛にあふれている。自分の幸福など、目もくれず、苦しむ人と一緒に苦しんでくれる、イエス。「無力」であることによって、無限の愛を示すイエスの姿は、なんともありがたく、また、美しく、僕の目に映った。
劇団四季で、ジーザスを見た方は、ぜひ!!
ジーザスの舞台を見る前の参考にと、読みました。
久しぶりに読み応えのあるものを読んだ気がしました。
舞台終了後、再読。神の子イエスというだけでなく、
人間イエスとしての苦悩が伝わってきました。
また、聖書を読んだことはあったのですが、よく理解できず、文字だけを
追っているような感じだったのが、なんとなくですが、理解できる?読み方
がわかる?というか身近なものになってきた気がしました。
曽野さん、三浦さんなど他の作家の方のイエスに関する本も
読んでみたくなりました。イエスの乾きとは・・・
極上のエンターテイメント
信念のために頑張る男が死を選ぶことにより信念を成就させる話です。
イエスを中心に当時のユダヤ人の生活状況や時代背景、ローマ帝国、ユダヤ衆議会の策略が絡みあい背景も非常におもしろいです。
またユダとイエスの関係が裏切り者と裏切られた者でなく、作者独自の解釈で書かれておりいい意味で衝撃的で心震えました。
弱い人間である弟子達がイエスの死により変わっていく様も感銘をうけます。
誤解され傷つきながらも自らの信念を貫くために歩むイエスの苛烈な生き様をぜひ読んでほしいです。
小説はとっつきにくいという方にはダイジェスト版『遠藤周作で読むイエスと十二人の弟子』(新潮社)がオススメです。カラー写真も豊富で読みやすいです。(私もこれを読んで小説を手にとりました。)
以上キリスト教云々でなく小説のおもしろさで語らせてもらいました。
人間的な魅力を持つイエス
遠藤周作が、日本人の小説家としての観点からイエスの生涯を綴った本。しかしそこから導きだされるイエス像は決して偏狭なものではなく、国家を超えた普遍的なものを持って我々に迫ってくる。最終的に現れてくるイエスは非常に単純明快な意味での『愛の伝道者』なのだ。
これだけを書くとありふれた事しかこの小説には書かれていないと思えるが、そこに至るまでの話の運び方が秀逸である。様々な紆余曲折、イエスの孤独な悩みの描写を経たのちに辿り着くこの結論は、ただ結論だけを述べられるよりも遥かに分かりやすさと深みを持って理解される。
著者は聖書で語られているイエスの奇跡描写の言及を極力排し、あくまで一人の人間を見る目でイエスを見つめる。そこには奇跡を行うことで、苦しんでいる者を具体的な苦しみから直接救うイエスは描かれていない。
苦しんでいる者は、病気などの具体的な苦しみよりも、むしろ誰からも愛されないという苦しみが根本にあると言う事をイエスは熟知していた。そして深く同情し、自らが彼とともに苦しむ事によって彼の根本の苦しみから解放しようと言うのがイエスの愛だ。奇跡的な側面を描かない事で、このような『愛』の構造がより深く理解できる。そしてこのように描写されたイエスは、いっそう人間的な魅力を持つ人物として我々の目に映る。
この他にも、このような考え方のイエスがなぜ当時の人々に全く理解されなかったか、ユダはどんな感情の変遷を経た後にイエスを裏切ったのか、などの興味深い事柄が、遠藤周作の独自の、しかし非常に真実味を帯びた語調で語られる。
とかく奇跡を崇拝する宗教だと誤解されがちなキリスト教だが、この作品ではキリストが崇拝される理由を、極めて人間的な部分においている。ゆえに宗教は信じないと力んでいる日本人にも違和感なく受けいられる。キリスト教をただ崇拝するだけでなく客観的に見る事が可能な日本の小説家だからこそできた事だろう。
無力な愛
私の以前からの考察テーマでしたがこの書を読むことでより謎が深まった気がします.しかし夜明けが最も暗い闇の直後に訪れるように,より深まった謎は必ず明けてゆくものであると信じますし,良い意味でこの書は私の悩みを深めてくれました.浅学なもので遠藤氏がカトリック信徒であることさえ存じませんでしたが,小説家ならではの新約聖書の読み解き方,感嘆いたします.続編の“キリストの誕生”も素晴らしい書でした.
深い河 (講談社文庫)
遠藤 周作 講談社 講談社
日本人として西洋の神 キリストの存在を追いかけ続けた遠藤周作の意外な集大成の著
久しぶりに読んでみた。
言葉に出来ない想いがずっと横たわっている。
最初に読んだのが恐らく10年以上前だと思うけども、やっぱりそれから歳を重ねると、書いてあることの受け止め方と重みがぜんぜん違うし、とても良かったぞ。
ましてや、あの時はインドに行った直後に読んだので特に印象深い本であったのだ。
遠藤周作は、ご存知のようにカトリックの信者であった。戦後初の交換留学生としてフランスに渡り、そこで彼が感じた西欧カトリックの歴史の中での「在るべき」姿から、自分の形に信仰を落とし込むまでの苦悩が遠藤周作にはあったようだが、その彼の姿がこの本にも主人公に変えて書き込まれている。
カトリックでは認められない「輪廻転生」という概念と、現在のインドでのヒンズー教信仰。どこでそれがつながっていくのかという人間と人間。そこには全ての宗教をも包み込む概念としてのガンジス河があった。
インド人にとっては母なるガンジス河。すべての人生の苦悩と矛盾を抱えながらその河に流されいく死者。そこにカーストをも外れた人間のために自分を差出すカトリック神父。イエス・キリストが全ての人間の罪を背負って最後は十字架を背中に受けながら歩く姿に、その神父は死を待つ人間を背負いながらなぞるのだと告白する。
人の心の美しさや、信仰というものからあえて目を逸らしてきた女性に、この神学生は「神がかたくるしければ、”たまねぎ”と言い換えてもいい」と彼は神を語っていた。
「神は存在というより、働きです。
たまねぎは愛の働く塊なんです。」
深い河が目の前を流れていくのを感じた
それぞれの過去にとらわれ、救いを求めてインドの聖地へ向かう男女の物語。
時代背景としてはやや古くなってしまった感もある。
しかし、そのテーマは永遠のもの。少しも古さを感じさせない名作だ。作者の巧みな話術により読み始めたら、止まらなくなってしまった。
善と悪とは?宗教とは?人生とは?愛とは? その中で私たちは何をよりどころにして生きていけばいいのか?
すべてのものを包み込みながら大河が目の前を流れていくのを本当に感じました。おすすめです!
イラっとしたのは私だけ?
ものすごく筆者の苦悩が伝わってくる汎神論についてですが、宗教色が薄い平凡な日本人の私としてはキリスト教の解釈も大津とだいたい似たようなものなので、なんでそんなに悩むのかがわかんないよってさらっと流してしまいそうです。
それよりも!あ〜もうねぇ。妻は空気がサイコー!なんて言っていてそれを「愚か」だった、「自分のエゴ」だったといいながら、作者さん、妻の臨終のときに「生まれ変わっても私を見つけて」って言わせてるでしょ。「空気のような従順な妻から実は熱愛されていたオレ」これってすごく男のロマンじゃないですか?自分のエゴから脱却してないじゃん!・・・書いている本人自覚ないんだろうなぁこういうのって。まあ筆者さんの時代が時代ですからね。
ラストは乱丁本かと錯覚しましたが、思い返してみるとすごくいい終わり方だったと思います。「歓びを歌にのせて」って映画のラスト思い出しました。
受け入れるということ
何でも受け入れてくれる「深い河」=ガンジス川。
妻を亡くした男、人を愛せない女、友人の苦しみを理解したい男…さまざまな登場人物が、何か「意味」を求めてインドへ向かう。宗教観というものを持たない日本人が、何かにすがり、信じる人々を見て、「信じる」とは何かを考える物語。「これでもか」というほどにノー天気に描かれた三條夫妻が良いスパイスに。。
インドに行ったことはないけれど、いつか行って自らの目で「深い河」を見てみたいと思わされた。
それぞれの想いを内包して……
「必ず生まれ変わるから」と言い残した妻の言葉のため。
大学時代、弄んだ男にもう一度会うため。
人生の節目で自分を救ってくれた九官鳥に恩返しするため。
ビルマで死んでいった戦友を弔うため。
それぞれの想いを抱えてインドへと向かう人々と、全てを包むガンジスの物語です。
宗教色が強いのかな、と始めは敬遠していたんですが、読み始めると面白くてちっとも気になりませんでした。
一方的に押し付ける感じもなく、人々が信じるものをそれぞれ真摯に見つめていて、読んでいて胸が熱くなります。
キャラクターや時代背景も綿密に計算されていてよかったです。
それぞれの想いをすべて飲み込んでゆったりと流れていくガンジス河。
見てみたい、と思いました。
人生には何ひとつ無駄なものはない (朝日文庫)
遠藤 周作 朝日新聞社 朝日新聞社 鈴木 秀子
温かい応援団。
遠藤の言葉に、弱い我々は、大いに励まされます。
日本人の体にあったキリスト教が心の中にしみこみます。
教条主義に囚われ、自分が一番正しいと自分が神に成り代わり
他人を裁く人、それをイエズスは一番嫌われた。
その象徴がパリサイジンでした。あたかも先にレビュウを書いた人の如くであります。
どんな宗教を信じても自由ですが、その価値観を持って人を切り捨てる。そんな人間になって欲しくない遠藤のメッセージが満載されています。
ひょとして神様から一番遠い人は、長年カトリックの原理主義者
ではないか?私もカトリックですが、しみじみ感じています。
私は、イエズスの言葉は真実だと思いますが、それを信仰しているのは
あくまでも人間です。中には、キリストを信じてさも自分が、偉くなったと錯覚している信者さんもいます、そんな人にこそ、一読の甲斐があります。
私にとって神とは (光文社文庫)
遠藤 周作 光文社 光文社
神は働きかける・・・
著者がクリスチャンであったことは、有名である。
これは、問答のかたちをとって、彼がキリスト教をいかに受け入れ、解釈してきたのかを綴ったインタビュー集である。
大概の日本人が生来にして仏教徒であるように、著者はカトリックであった母親の影響で、幼少の頃に洗礼を受けている。
押し付けがましいと感じていたのか、そのころはキリスト教の教えは、自分にはしっくりこなかったという。
しかし、次第に教えを受け入れてゆき、最終的には著者の宗教観を「沈黙」という作品にまとめ上げている。
そこに至る過程をつたない仏教説話を例題にあげ、すこしでもわかり易く伝えようとしている。
そこからは、キリスト教を含め宗教に対する真摯な姿勢が感じ取れる。
人を一様にくくれないのと同じに、宗教観もひとそれぞれ違っていいのではないかという、著者の広いスタンスの物腰に共感を覚えた。
愛と慈悲について
遠藤周作の語るキリスト像は、優しい。
キリスト教について知らない人にも、キリスト教会に辟易している人にもお奨めの一冊。
私は神について、聖霊について、信仰について、語られると、つい堅苦しく構えてしまうのが常だが、遠藤周作によるとすんなり受容できてしまう。
勿論、全てについて頷けるわけではないが、氏の持つ信仰の余裕と、氏の人に対する優しい眼差しは、成熟した大人のクリスチャンの姿を感じさせる。特に、未だ癒されぬ心の傷を負っている者にとって「愛と慈悲の問題」について氏が語っている部分は、大きな慰めとなると思う。
遠藤思想のすべてを鵜呑みにすることはきわめて危険です。
遠藤周作は「私にとって神とは」(光文社文庫)p.166、p.215でテイヤール・ド・シャルダンを絶賛しまくっていますが、ヴァチカンはこの本の初版の出版の前に二度にわたってテイヤールの著作に関する厳しい警告を出しています。
「(テイヤールの流通している諸著作が)カトリック教義に反する曖昧性や深刻な誤謬を含んでいることは十分に明白である。
それゆえ、・・・聖庁は、全ての教区司教、修道会上長、神学校校長、大学総長に、テイヤール・ド・シャルダン神父と彼の追従者の諸著作によって引き起こされている危険から、人々の精神を、とくに若い人々のそれを守るように強く勧告する。」 (WARNING REGARDING THE WRITINGS OF FATHER TEILHARD DE CHARDIN ,Sacred Congregation of the Holy Office )
以上のようなヴァチカンからの警告にもかかわらず、またそれは現在も何ら撤回されていないにもかかわらず、遠藤周作や上智大学教授百瀬文晃師、オリエンス宗教研究所をはじめとして、日本のカトリックの中にはテイヤールの教説を支持する人々が数多く存在し、またその言説は広い影響力を及ぼしています。大変危険な状況です。
テイヤール主義は、「進化する神」という思想を提唱している点で、神の不変性を主張するキリスト教の正統的教義と正面から矛盾するばかりでなく、神智学・ニューエイジ的疑似宗教にかぎりなく接近しています。現にニューエージャー自身が、自分たちの思想の先駆者としてテイヤールにしばしば好意的に言及しています。(ファーガソン「アクエリアン革命」実業之日本社など参照。)ニューエイジ運動は教皇ヨハネ・パウロ二世の著作「希望の扉を開く」(新潮文庫)で、「新たなグノーシス主義」として鋭く批判されました。
テイヤール主義に関する最も徹底した批判文献としてつぎのものをおすすめしておきます。
Wolfgang Smith,Teilhardism and the New Religion (TAN Books)
ISBN 0-89555-315-5
生きる力を与えられました
自分がとても苦しい精神状態のときに出会った本です。
肩の力を抜いてごらん、私にとっての神様っていうのは、信仰っていうのはこんなに楽なものなんだよと教えてくれて、ふっと気持ちが楽になりました。
今でもわたしの中の大切な一冊です。
神について、信じきれない、無いとも言えない、普通の人へ
遠藤 周作氏は、キリスト教徒でカトリックですが、この本は、異国の、西洋の文化や思想のコアとしての、キリスト教学や神学を、学問として客観的に解説しているわけではありません。もちろん、聖書やキリスト教についても分かり易く言及されていますが、迷い深い日本人の作家が、「神の働き」について、本音で正直に書いた独白の書であると思います。
特定の宗教を、信仰している、してない、に関わらず、「神について」人生の様々な局面で、悩んだり、疑いを持ったり、胡散臭く思ったり、何らかの感心を持った時に、心に染み入る(かもしれない)1冊。
わたしが・棄てた・女 (講談社文庫 え 1-4)
遠藤 周作 講談社 講談社
幸福の中にある寂しさの痕跡を考える
遠藤周作先生といえば、「海と毒薬」「沈黙」など純文学と、狐狸庵先生のネームでぐうたらエッセーを書く両面性が好きだ。
この「わたしが、棄てた、女」はその真面目とぐうたらとが交じり合ったような不思議な小説のように一瞬思えた。前半は、しょうもない男の話しが続いていくが、その男が年を取っていく過程で、若かりし頃の過ちを寂しく思い、そして今の幸福な生活を送ろうとする。今の幸福の中にある寂しさの痕跡はどこからくるのか、そして人生とは何かを見つめる。ラストは深みがある。
自らが置かれた状況をどう生きていくかを教えてくれる作品
別の本で遠藤周作氏が作品の中で好きな女性として、森田ミツを挙げていた。そこで興味をもったが、タイトルに抵抗を覚え、なかなか読むにいたらなかった。
森田ミツは、愚鈍な田舎娘で決してきれいな女性ではない。むしろ、その愚鈍さを腹立たしく感じ、吉岡に棄てられた場面では吉岡よりも棄てられたミツに怒りを感じてしまった。
しかし、ハンセン病の疑いのため御殿場の病院に入院することになったとき、今までの暮らしに戻れなくなることへの辛さや病への恐怖を抱きつつも、置かれた状況の中でその仲間と苦悩を共にし、生きていこうという積極さに心が打たれた。人生は置かれた状況で決まるのではなく、置かれた状況をどう捉え生きていくかで変わっていくことを教えられた。
恋愛ではなく、真の意味での人間愛を説いた純愛小説
ミツは本能的に崇高な魂の持ち主で有ると同時に、些少ながらも自己の利益に迷ったり、他者の幸福を妬んだり憎悪するといった平凡な俗性をも持っていた人間でもあった。作者は肉の人と霊の人を描いたのだと思う。吉岡に肉の人を、ミツに霊の人を明瞭に象徴させながら、実はその両者とも互いに自己の内面の相克に揺れる場面をも描くことによって、限りなく人間という存在を描いている。肉と霊。俗と聖。作者は、人間は矛盾して不完全な生き物ではあるが、死によって完成を遂げる事も可能であるという事もミツの死によって表してみせた。
「愛はすべてを与え給う」と言うがこの作品においては、「ミツはすべてを与え給う」と言っても良い。本書は軽妙な語り口で書かれた重厚な作品であると感じた。作中でシスターがすべてのことには意味があると述べているように、本書を読むことが出来たことにも大きな意味があると感じさせてくれた小説であった。人間を深く探求した小説でもあり、恋愛ではなく、真の意味での人間愛を説いた純愛小説であると思う。永遠に読み継がれる名作に違いない。
強い慰めが得られる作品
何度も読み返した作品です.
まるで「聖母様」のような少女ミツ.
一方で,俗な人間の代表とも言える「吉岡」.その2人の刹那の交流.
通俗小説のようなストーリーに見せかけて,
「人間も棄てたものではない.救いはある」と強く訴える,そのストーリーは鮮やか.
心が洗われる美しい物語に仕上がっています.
あなたはどっち?
世の中には、ミツのように、どうしても、他人に馬鹿にされ、いいように利用され、全く尊重されない人間が居る。
それは彼らの容姿のせいでもあり、ふるまいや、引っ込み思案な様子や、愚鈍な動きなどによる。
主人公吉岡のような、悪人でも善人でもないごく普通の人間にとっては、そのような人間は種類の人間は路傍の石のように、蹴飛ばしても痛くもかゆくもない存在だ。その人間がいかに愛に満ち溢れた善い人間であろうと、その神々しいまでの善良さが、愚鈍な外見に曇らされ、衆人の中に紛れていれば、人は平気でその石を蹴飛ばすだろう。
この小説は読者に、静かに、鋭く問いかけてくる。
あなたは蹴飛ばすほうの人間?蹴飛ばすくらいなら蹴飛ばされるほうを選ぶ人間?
軽々しくキレイゴトは言えない。私は過去に、ミツのような外見や特徴を持った人間に対して、彼女の内面が善であったかどうかは知らないが、言いようのない苛立ちを覚えてしまったことがある。その人間が自分より弱く、自分を着飾る必要も、気を使う必要も、競争心も全く持つ必要がないために、想像だにしないような、むき出しの残酷な自分があらわれた。
私自身は、そいいう自分の残酷さを内省するために、遠藤氏の作品にたまらなく惹かれる。単に善が素晴らしい、聖人になりなさいと訴えるわけでもなく、静かに相反する人間・・・聖人と凡人・・・を見せる遠藤氏の手法が、私は好きだ。
名作でした。
悲しみの歌 (新潮文庫)
遠藤 周作 新潮社 新潮社
きらめくことのなき命。
皆さん書いている通り本書は『海と毒薬』の続編的な本でありますが、私はこれしか読んでいませんのであらかじめご了承下さい。
1週間前に読んだ彼の本『大変だァ』がかなりお気楽なタッチでして、それが頭に残ってたせいか社会風刺満載な前半は通学の電車の中でくつくつと口元だけで笑っていました。
しかしさすがは遠藤周作、それはいうなれば食らいつきやすいエサであり魅せたい本筋はもっと別です。
まず、全編にわたってめくるめく人と人とのつながりの中で傷つき荒んでいく魂の軋りを痛切に感じました。
話の中心である産婦人科医は妊娠中絶の業に悩んでいます。
元はといえば人を救おうとなったはずの職業。
それが今や堕胎に手を染めるただの人殺しに変貌した自分、奪ってきた命に対する罪の意識、彼の精神的疲労は周りには愛想の悪い中年としか映りません。
そしてそれと対極に居る外国人。
ただ人を愛する事しか知らないがために、苦しむ人々のために彼は全力を注ぎます。
他の登場人物はごく普通な生き方をしている、つまり皆どこかにひた隠しにしている影をひきずって不自由そうにしているのに対し、彼だけは絶対的な善人(キリストの模写らしいですが)として世の中のあらゆる不幸のために泣くことができるのです。
罪に押しつぶされそうになる人とそれを救おうとする人、そして自分の罪からは全く目を背けてしまっている大勢の人々、この3つに分けられた登場人物たちは妙に生々しく、読者である自分がどれに位置するのかを炙り出されそうで、途中から読むのが少し恐くなりました。
それでも先を読まねばと思ったのは、自分の中にある罪を少しでも直視しようという心の動きだったかもしれません。
断じて明るい本ではありませんが、私と何か似通った不安感みたいなものを感じてもらえたらなぁと思います。
読んで良かったです。
海と毒薬を読んだ後に、この作品も読みました。
あまりにつらい生は、終わることが救いになることもあるのだと、もうつらさを感じなくていいですねと、救われた気持ちになることに驚かされました。
痛ましいほどにささやかな人のふれあいが、せめてもの慰めになり、この作品も読んで良かったと思いました。
最後に足許を離れなかった野良犬、語られなかったエピソードですが、人目に触れないところでそっと餌をあげている主人公が目に浮かびました。
人生の悲哀
遠藤周作の作品にはじめて出会ったのは中学生のとき「おばかさん」を授業で読んだときだったが、そのときはなんてまぬけなひとの話と思い、それ以後遠藤作品は面白くないとして一切読まなくなってしまった。
その後20年経て、手に取ったのがこの作品である。読み終わって久々に涙が出、感動した。これほど重厚で、深みのある本あまりない。中学生のとき、まぬけとしか思わなかったガストンがどうしてこう描かれているのかが胸に迫ってきた。
人生の苦しさを知ると、この作品は輝くと思う。
人生。
ヒトは、社会は、世界は、一体何なんだろう?
たぶん、誰もが一度はそう思ったことがあると思う。
でも、それでも、夜は明ける。
って遠藤さんは云ってる。
と感じた。
勝呂のその後
おなじみのガストンも登場し、「海と毒薬」の勝呂のその後といった
ストーリーが展開する。
前半はやや退屈するところもあるが、後半はさすが遠藤周作といった展開。
軽い語り口で、読みやすいですよ。
私のイエス―日本人のための聖書入門 (ノン・ポシェット)
遠藤 周作 祥伝社 祥伝社
キリストを知らない人に
聖書も読んだことがなくてキリスト教もよくわからなかったけど、この本を読んで、自分にひきつけて神様について考えることができました。聖書に興味があって一度は読んでみたいという人にお薦めです。
曇りなき目で
イエスが歴史上に実在したことを、はっきり示してくれる本です。
イエスは、普通の人間だったのかと、今更のようにびっくり。
ダ・ヴィンチ・コードの次に読みたい本です。
はっきり言って、ダ・ヴィンチを超えてます。
面白いし、泣けます。
私の人生を変えた一冊
最初は「ユーモアエッセイの作家」としか思っていなかった遠藤さんの、この著作を読み、私はイエス・キリストを心から尊敬するようになりました。
やがて聖書を愛読するようになり、以前と比べて大きな心の平安を得ることが出来ました。
私自身は聖書に記された奇跡物語が事実がどうかといった議論の答えはわかりません。
しかし、マタイの福音書のなかで、パンを分け与えた奇跡物語のすぐ後にイエス御自身の「パンのことについて言ったのではないことが、どうしてわからないのか」という言葉が記されいることに何か深い意味を感じます。
もう一点。最近のキリスト教の文献(ユダの福音書)の研究でイスカリオテのユダが、単なる裏切り者ではなく、実はキリストの教えを他のどの弟子よりも理解していたのではないかとの説がありますが、遠藤さんはそれらの研究に寄らず、はるか以前にそのことを見抜いていたと感じさせます。
単なる教条主義のキリスト教者から説教されても私は聖書を手にしなかったでしょうが、遠藤さんの著作には異国の異教徒にイエス・キリストを敬愛するきっかけを生み出す力があると思います。
第三者にとって非常に入り込みやすい
キリスト教の人たちの文章は(自分たちで気づいていないのかも知れませんが)非常に独特で、自己完結したものが多い中、この作者の文章には出来うる限り、イエス像をクリスチャン以外の第三者へ伝えようとする熱意が籠もっている。
どのような権威が言った言葉であっても、現実にあわないことを「ある」ということは空しい。
いくら信徒は信じ込ませても、いずれ訂正しなければならない時が来るのはガリレオの地動説を弾劾した前例から明らかである。
「盲信」はどの宗教にあっても「カルトの萌芽」である。
その点、この作者は非常に冷静だ。好感が持てる。
第二バチカン公会議の教えを攻撃する危険な著作家
遠藤周作は、「カトリック作家」ということになっています。カトリック信徒は、その公の言動において、カトリック教会の教導権の教えを否定するような言説をばらまくことはなんらゆるされていません。(教会法1369条、1371条など参照。)
しかるに遠藤周作は例えば、
「それはこの婚姻の席でイエスが「水を酒に変えた」という象徴的な出来事の意味である。 聖書の中ではイエスの奇跡として語られているこの行為は、実はイエスと弟子達との関係を暗示しているのだ。」
(遠藤周作「イエスの生涯」新潮文庫p.39)
「イエスは群衆の求める奇跡を行えなかった。・・・子を失った母の手をじっと握っておられたが、奇跡などはできなかった。」 (同p.95)
「現実に無力なるイエス。現実に役に立たぬイエス」 (同p.191)
「現実には力の無かったイエス。奇跡など行えなかったイエス。」(同p,213)
と、カナの婚礼における奇跡の事実性を否定し、イエスには「奇跡はできなかった」と繰り返し執拗に主張しています。すなわち、福音書における奇跡の記述はいずれも事実ではありえない、私はそのようなことを断固として否定する、と繰り返し明言しているわけです。
いうまでもありませんが、このような解釈は過去のいかなる教会教父、教会博士によって主張されたこともありませんし、現在のカトリック教会の教えでもありません。
第二バチカン公会議「教会憲章」58を読めば明白なとおり、ヨハネによる福音書第二章のカナの奇跡のエピソードの史実性は当然の前提とされています。
つまり、遠藤は第二バチカン公会議の教えを攻撃しているということです。
聖書の入門書としてはリチョッティ「キリスト伝」や、福者アンナ・カタリナ・エンメリックの著作をおすすめします。
また、遠藤が依拠した聖書学者の見解の多くがなんら論理必然的なものでないということにかんしては、William G.Mostの著作を参照することをおすすめします。(Catholic CultureやEWTNといったサイトで公開されています。)
留学 (新潮文庫)
遠藤 周作 新潮社 新潮社
けっこう好きなんです
ヨーロッパに留学した日本人たちの屈折した想いをテーマにした三部作です。 遠藤氏の個人的な体験から来る心情らしきものもかなり感じられます。 確かに今となっては時代背景も社会事情も大きく異なっていて(西洋のどこにでも、24時間あれば行ける世の中になりました)、多少古臭くなっているような描写もあるかもしれませんが、西洋に留学をした経験のある人なら、今でもかなり共感できる作品集ではないかと思います。 特に三番目の“爾も、また”は、かなり深刻な話で、留学―というテーマを別にしても、不器用で世渡り下手なインテリの悲哀を扱った作品としても佳品であると言えるのではないでしょうか。
主人公・田中のように、西洋にあこがれつつも、自分が決して西洋人ではないことを西洋に来てはっきり認識させられるー、かと言って西洋に比べて劣った国である(彼はそう思い込んでいます)日本社会の中にどっぷり浸りきって生きていくことも出来ない人間、これはある意味で日本のインテリの一つの典型であり、経済的に西洋を追いこしてしまった今日においても決して消えてなくなったタイプの人間とは言えないと思います。 結局西洋文学者という己の生き方さえ根底から揺さぶられた田中はフランスの地で体を壊し、帰国を余儀なくされるのですが、物語は唐突と思えるほどそこで終わっています。 たしかに尻切れトンボの感は否めないのですが、そこに至るまでの田中の挫折感、疲労感、屈辱感の描写には嘘が無く、なんとなくこのへん、人間のネガティブな面を赤裸々に描いた、という点で、夏目漱石の“こころ”を思わせる異様な迫力があると思います。 そう言えば漱石も西洋と日本の葛藤に苦しんだ経験のある人でした。 決して気持のいい作品ではありませんが、興味のある方はぜひ読んでみてください。
留学生が感じる孤独と挫折
留学生活に必ず起きるといっても過言ではない<孤独>と<挫折>。大志を実現しようと無理を重ねるうちに超えられない熱い壁に失望する姿や、外国の狭い日本人社会、いつのまにか生気を失ったように現地で生きていく人の姿 等、留学生が抱える<大志>と<現実>をひしひしと描く。
昔の留学生
フランスへの日本人留学生の短編集。 遠藤も20代の頃留学しており、そのときの体験がもとに なっていると思われる。
印象に残ったのは、フランスに留学した大学講師が、ヨーロッパ文化の前に挫折し、また結核にかかって失意のまま帰国する話。遠藤は留学生には3つのタイプがあるといい、この主人公は、フランスの文化(石の文化、ヨーロッパ文化)にぶつかり、負けてしまったパターン。
出版当時は新鮮であったであろうヨーロッパ批評、日本批評であるが、こんにちの読み直しにおいては、紋切り型との批判は免れないだろう。
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