閉された言語空間―占領軍の検閲と戦後日本 (文春文庫)
江藤 淳   文藝春秋   文藝春秋  
「ジャーナリスト」は二度死ぬ
この本は、アメリカがいかに「検閲」を行い、戦争に「勝利」し、日本を「占領」したかを描いた本です。
「軍国主義」の日本より、「自由の国」アメリカの「検閲」の方が、はるかに「厳格」ということが分かり、興味深いと思います。

それに加えて、「メディア」の問題も明らかになります。
「新聞」や「雑誌」は紙面では、「知る権利」「反権力」を売り物にしますが、実際は「自己保身」のために占領軍に「迎合」したことが明らかにされます。
そうであるかぎり、これからも「メディア」は「検閲」で出来た「言語空間」を守ろうとすると思います。
なぜなら、この「言語空間」が崩れると「メディア」の「罪(戦前、軍部に「迎合」した罪と占領軍に「迎合」した罪の「二重の罪」)」が暴かれるからです。

残念ながら、これが「敗戦」した国、日本の現実なのだと思います。
GHQによる戦後日本の戦争贖罪植付け教育とマスコミの自己検閲
  所謂戦後教育を受けた方に知ってほしい内容が詰まっています。
本書は、眼に見えない形で行われた戦後日本の思想教育を記した名書
です。GHQは戦後、日本人に戦争贖罪意識を植付けるために検閲を周
到に準備し実行しました。自虐史観の日本国憲法に始まり、学校教科書
からはアメリカを悪くいう文言が消え、NHKドラマには必ず暗黒の戦時
中の場面が現わるなど。優等生のマスコミは検閲をクリアすべく自己検
閲を始め、日本の独立が確保された後でもその検閲の習慣が残り、あま
つさえ増殖していったのだと。現在日本の精神的荒廃に繋がったのだと
分析します。保守論客江藤氏の早過ぎた死が今更ながら悔やまれます。
歴史は、勝者によって書き換えられる。
 戦後GHQによって実施された民間検閲の実態を、アメリカでの資料調査に寄って明らかにしています。 僕は、
この本を読むまで、検閲はすでに過去のことと思ってましたが、そうではなく現在もその影響下にあることが明ら
かです。
 本書は、2部構成で、検閲の準備段階と如何に実施したのかに分けられてます。 戦争の初期段階から占領下で
の検閲が準備されていたこと。 過去の大戦を通じてプロパガンダと検閲の技術を向上させておりそれが現在にも
到っていること、占領下で、民間情報教育局(CI&E)の所謂「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム」と
民間検閲支隊(CCD)の検閲が一体となって日本の歴史・文化への信頼を崩壊させようと執拗に実施されて、検閲終了後
も自壊し続ける様に仕組まれていた。 「太平洋戦争」と言う言葉も戦後GHQが作りだした言葉とは知りませんで
した。
 反日マスコミの芽もこの頃に作られたことが明らかです。 日本人必読の本です。
江藤淳氏の至純の心。魂の叫び。
 江藤氏ファンに言いたい。敢えてこの本に関係ないかもしれないが、しかし根源では繋がっているのではないか?
 病苦が理由とされる彼の自刃…本当の理由は「諫死」…俗化を極め、眼を覆いたくなる事件が頻発する昨今、この状況が来るだろう事を予感して、世を諌める理由で自決したのではないのか?つまりは、太宰、三島と同じ理由から、戦後社会への警告から死んだのでは?
現在のマスコミの原型
本書は江藤淳がその存在自体が隠され、それまで誰も本格的に研究することのなかった米軍占領下における検閲制度について、アメリカ側の膨大な資料と格闘し、その実態に迫った労作である。この分野について知るためには基礎的な文献である。

本書読了後になにより衝撃的であったことは現在のマスコミの問題の大半が終戦直後に既に形成されていた、もしくはGHQにより作られていたと言うことである。

個人的には現在のマスコミの大きな問題は自己規制にあると考えている。その源泉のひとつがGHQの検閲制度にあったことは新たな発見であった。勿論、それ以前に軍部による検閲があったことも事実である。しかし言論の自由を保障するはずのアメリカ(その建前があるからこそ検閲制度の存在は秘匿された)は新たな言語空間を新生日本に築くこともできたはずである。

日本を二度と軍事国家として再生させない、そしてアメリカに都合の良い国家に改造するという意志。アメリカという国家の遠大な戦略的視点と実行力には好悪の感は措いても脱帽する。


夏目漱石―決定版 (新潮文庫 (え-4-2)) 夏目漱石―決定版 (新潮文庫 (え-4-2))
江藤 淳   新潮社   新潮社  
慶大在学中発表の出世作!既に巨匠の貫禄。
「日本の作家について論じようという時、ぼくらはある種の特別な困難を感じないわけに
は行かない。西欧の作家達は堅固な土台を持っている。ぼくらはその上に建っている建物
のみを、あるいはその建物の陰にいる大工のみを論ずればよい。…これを裏返せば、多く
の日本の作家は西欧的な意味での文学を書いていないということを意味する。」
この有名な書き出しに続き、著者は漱作の弟子や研究者達により創られていった漱石神話
(「則天去私」神話など)を丁寧に検証していく。
著者がまづ着目するのは、『文学論』という奇怪な文章に結実するロンドン留学。そこで、
漱石が遭遇した「深淵」。これこそ日本では稀有の近代作家夏目漱石を誕生させたエポック
だと言う。
明治以来、西洋における「近代」の問題を、個の「生」として直面し生きることもなく、
ただ西洋文学の形式を上っ面だけ「猿真似」している文壇。その空虚を埋めるが如く「芸
術か生活か」といったありもしない問題にふける始末(のちのプロ文や私小説も同じ)。

それらとは無縁なところで、漱石が孤独に遭遇した深淵こそ、彼を「最初の人」としたと
いうわけだ(のち講演で江藤は、鴎外を「最後の人」、漱石を「最初の人」と述べている「鴎
外と漱石」昭和41年)。
本稿発表は著者が昭和31年、若干二十三歳、慶大文学部在学中(早老ですよ)。
著者については、よく後年の保守論客への転換が云々される。が、すでに本作で漱石に共
振しながら、陰画の様に語られる著者自陣の自画像のうちに、「深淵」への直面と、公との
問題が内包されていると思える。
尚、江藤の生い立ちや思想については、小熊英二が『民主と愛国』で一章を割き論じてい
る。簡潔に纏まっておりお勧めできる。
批評家の文章を味わいましょう
普段、夏目漱石などの名作と言われる
文学作品を読むことがあっても
なかなか、批評家の文章を味わう機会が少ないと思います。

本作は、江藤淳氏が若い頃、発表された大作であります。

本著を通じ、普段、なかなか味わうことができない
批評家の視点を感じとりたいものであります。
漱石よりも江藤淳が気になる
著者23歳発表の画期的論文以来二十年の漱石観をまとめて見渡せる一冊。「漱石の位置について」「晩年の漱石」、そしてそのほかの小論という三部構成。少なくとも「こころ」は十回は読んでいる、という著者だけにその作品の読みこみには深く、微に入り細にわたっており、漱石文学案内としても読むことができます。しかしその思索は熱く激しく、わたしには少々オーバーヒートの印象を受けました…漱石よりも著者江藤淳の人物像になぜか興味がわいてしまうのです。


成熟と喪失―“母”の崩壊 (講談社文芸文庫) 成熟と喪失―“母”の崩壊 (講談社文芸文庫)
江藤 淳   講談社   講談社  
noli me tangere
  イエスは言われた。「わたしにすがりつくのはよしなさい」(ヨハネ20:17)

 死を前に、神の国を前に、すがりつく女、マグダラのマリアをイエスが振り払うこの
シーンがすべてを象徴するかのよう。

 成熟とは、「近代」へと「自由」へと飛び出すこと、「母」を喪失すること、その喪失に
よって「母」を傷つけた罪を引き受けること。
「近代」において特徴的なこととは、例えば家や集落に代表されるかけがえのなさを振り
払い、例えばコンビニに象徴される匿名性、入れ替え可能性へと移行することに他ならない。
 この移行に当たっても、「父」はなんら問題とはならない。なぜなら、家から社会へ、
「私」より「公」へ、というより大きなパターナリズムへと委ねられるに過ぎないから。
 しかし、「母」についてはさにあらず。親族構造における交換に基づく接続記号として
存在を許されていた「母」は、その家が放棄されれば、必然的に死を迎える他ない。まさに
「女は存在しない」。
「母」の庇護を離れて独立する――「自由」とは苦しいもの、それゆえ「自由」を前にして
人はしばしば逃走を選ぶ。いわゆる団塊の世代がその自由を前にしながら、あるいは前に
するがゆえに、かえって異様なまでに保守的な家庭制度や道徳を好むのはまさにその実践。

 戦後の小説から「成熟と喪失」を説く江藤の議論は極めてよく練られたもの。
 しかし、これを近代を迎える日本に特有の現象と位置づけ、読み解いてしまうのは完全なる
ミスリーディングと言わざるを得ない。この主題は、世界中のほぼすべてのパターナリズムを
基調とする文化体系において、「近代」への移行が構造からして必然的にはらまざるを得ない
問題であって、日本とてその一例に過ぎない。事実、日本固有の「母」をめぐる江藤の特徴
づけはいかにも弱い。

 そして蛇足ながらもう一点、遠藤周作をめぐる「父」と「母」にも誤解があるようだ。
「神よ、神よ、なぜにわれ見捨て給うか」。
 神はすべて人間を前にしては「無力な神」、踏み絵を甘んじて受ける神として現れる
他ない。
 その結果として、人間は「神の国」を断念して、「この世」へと引き返すよう強いられる。
それはすなわち女の存在する世界、「母」への帰還。
「神の前で、神と共に、神なしに生きる」。
わかりやすい構図
母の喪失は成熟のあかし、
アメリカ西部開拓時代からのフロンティアスピリットから
文学を、社会を縦に切る構図はわかりやすい。
独創的な評論でおもしろく読めた。

妻と私・幼年時代 (文春文庫) 妻と私・幼年時代 (文春文庫)
江藤 淳   文芸春秋   文芸春秋  
江藤淳の最高作
掲題通りの評価である。最も親密な者が永遠に去っていく「時」を描いた作品。小説とか、ノンフィクションとか、エセーとかいうようなカテゴリーが無意味になるほどに読者は、その気持ちを「体験」してしまう。
死んでいくことを予感しながら静かに一時一時を大切に過ごす時間が、切なくも「甘美」で懐かしい。そしてそれは恐ろしくも「幸せ」なのだ。だが同時に一瞬が戦いであり苛烈に過ぎる。全てが一段落した後、ふとポケットに手をやると妻の「指輪」が出てくる。物凄くむかしの懐かしいような感覚が走るとともに、著者ははじめて無闇に落涙する。読んでいて悲しいが、どこか、「普段」へ帰ってきた安堵感さえ過ぎる。本書は、まさにそうだ、としか思えない一編である。興味深いのは、石原、吉本、福田の3人がエセーを寄せているが、同じ出来事(江藤の死)でも感じ方がいろいろあるのだなあ、ということだ。石原のエセーが或る意味一番自然で腑に落ちる一方、吉本のそれは、やや唐突な気もしたが、暫くするとそれはそれで、腑に落ちていくのだ。数多ある批評や発言で、何かしら横柄で不快感の残る江藤淳だったが、忘れられない作家になった。
何時もながらの真摯な筆致がなんとも切ない一篇
著者らしい真摯な筆致がなんとも切ない。
付録の追悼文で吉本隆明が手記の「隙のなさ」を指摘したあと、「この手記
について感想をのべたら、わたしは直ぐに生死の境に嘴を入れる無神経な第
三者的な野次馬の位相に陥るほかない」と述べている。なるほどと頷ける。
余りに整いすぎており、奥様の立場からの見方も聞いて見たい気もする。

生きることの痛刻
石原慎太郎をして「早熟」といわしめた才人江藤淳。
妻を看病しながら自分も病魔に侵されていくという
想像を絶する苦しみが描かれている。
何気ない小さな日常が破られることから始まる著者の回想は
忍び寄る病苦を恐ろしく予感させ、胸が騒ぐ。
著者が迎えた最後の悲劇を思うとき、
本書の言葉一つ一つが俄然その重みを増してくる。

「家内とはやがて別れなければならない、そのときは自分が
日常的な実務の時間に帰るときだ、と思っていたのは、
どうやら軽薄極まる早計であったらしい」
抑制の効いた言葉に見る著者の底知れぬ苦悩は、
私自身に照らしてもあまりに辛く、
できれば読まないでおきたい本だった。

しかしいつかは向き合うべき苦しみを綴る本書に
私は感謝と畏敬の念を禁じ得ない。


小林秀雄 (講談社文芸文庫) 小林秀雄 (講談社文芸文庫)
江藤 淳   講談社   講談社  
小林秀雄に憑依して己を語った「江藤淳論」、なのかも
「夏目漱石論」の時もそうなのだが、問題のありかを殆ど心理へと
還元してしまうような論じかたである。
そのためであるのか、対象の枠組みを追体験するかのように潜行してゆく
なかで、どこからが著者自身の心性なのか、対象のそれなのか錯覚してし
まいそうになる。
西欧人なら神をみる地平に「自然」を見出さざるをえない日本。その近代
とはなにか?そうした主題も勿論興味深い。
だが、音楽の愉しみ=滲み出る作曲者/演奏者の声の抑揚に身をゆだねる
楽しみを本書にも見出してもいいのだと思えた。
要はブレンデルのベートーベンに近いのかも。

批評家としての宿命
 批評とは自分の夢を懐疑的に語ることだと小林秀雄は言った。夢を素直に語るのではなく、なぜ懐疑的に語るのか。そう語りたいのではなく、そう語らざるをえないのだ。資質と環境がそういう宿命をこの批評家に強いたのである。

 この本を書いたときの江藤淳はまだ20代だった。私自身が若いときにこの本を読んで、その老成ぶりに驚いたが、現在では、これはやはり若い人でないと書けない本だと思う。江藤によれば、小林秀雄を最終的に批評家にしたのは中原中也と長谷川泰子との血の吹き出るような三角関係である。その過程を生々しく分析するのは、それに共振しうる若い感性が必要だろう。この部分はいまだに色あせない魅力に満ちている。対象を批評するのと自己を批評するのが一致するような思想とは?それが「宿命の理論」である。人間関係の葛藤の中からそれが紡ぎ出されてゆくプロセスが面白くないはずがないではないか。その後、様々な小林秀雄論が書かれたが、この本の魅力を超えるものは少ない。

 ながらく私の愛読している角川文庫版も品切れだったので、復活したのは本当に喜ばしいかぎりだ。(ただし角川文庫には所収されていた「文庫版への序」と「普及版への自序」がないのが残念である。)小林を読むうえでの必読文献であり、近代の批評家を扱った書物の白眉である。
批評家とは
批評家とは一体どういった職業なのだろうか。
普段、小説家などの文章を目にする機会は多いが
批評家の文章を目にすることは少ない。

新潮社文学賞を受賞した作品でもあり、
小林秀雄氏について、多大な労力を計り調査した結果に基づき
書かれた本作は名作と言える。


南洲残影 (文春文庫) 南洲残影 (文春文庫)
江藤 淳   文藝春秋   文藝春秋  
優雅で感傷的な滅びの歌
しかし、どうしようもなく違和感が残る。〜人間には、最初から「無謀」とわかっていても、やはりやらなければならぬことがある〜?浪漫派が一人で勝手に滅びるのは構わないが、三万の兵士、ましてや国民を巻添えにするなどというのは、そもそも「政治」ではない。国家の政策決定プロセスを、浪漫派的人間へと単純に擬人化するなど論外である。南洲「思想」というよりは「宗教」であり、西南「戦争」というよりは「殉教」であったのだろうか。薩軍の「士」は、官軍の「農商の兵」を侮蔑したが、「士」は滅びても「農商」は生き延びた。潔く死ぬことよりも、堕落しつつ生き延びることで、日本は焦土から再生したのだ。そして、それこそが本当の強さではないのか、ANGO?
カッコつけすぎ
日経ビジネスで、京セラの稲森さんが、西郷南洲についての傾倒ぶりを何回かにわけて書いている。会社経営と西郷の関係について知りたくなって、手にとった本。失敗であった。西郷の初心者には難しすぎる。他の本で基本的な知識を得てから読んだほうがいいと思う。また、この本、カッコつけ過ぎ。昭和20年、降伏調印のために現れた米国艦隊について、「あれだけ沈めたはずなのに、まだこんなに多くの軍艦が残っていたのかという思いと、これだけの力を相手にして、今まで日本は戦って来たのかという思いが交錯して、しばし頭が茫然とした。しかし、だから戦わなければよかったという想いはなかった。こうなることは、最初からわかっていた、だからこそ一所懸命に戦って来たのだと、そのとき小学校六年生の私は思った」なんて書いている。「これだけの力を相手にして」と思っている人間が「こうなることは、最初からわかっていた、だからこそ一所懸命に戦って来たのだ」なんていうのか?カッコつけ過ぎでうさんくさい。
自立・独立できない日本
西郷の滅びに仮託しているが、著者の様々な著書に書かれた「今」つまり戦後日本のありようが、米国の占領とその時期の検閲によって本来の日本的なものが、「軍国主義日本」という米国のプロパガンダ・徹底的な広告宣伝活動によって完膚なきまでに潰され、根無し草かつ「日米同盟」とまで言いきる一国の代表を生み出すところまでいきつくことを見通したような著作だ。
安保条約は、決して同盟ではないし、米国は日本国内に無差別爆撃を行なった国であるし、広島・長崎に必要の無い原爆を投下した国であり、当時も今も国際関係の中で認められていない「平和に対する罪」で東京裁判を行なった国であり、その責任など全く反省も無いし、いまだ正義と思っている。

倒れた西郷は、独立・自尊を目指した=大東亜戦争を戦った日本の姿そのものだと深い意味で言っているのだと私は思う。
浪漫派的
江藤淳の日本語の美しさと、西郷の最期の美しさが見事に結晶した傑作。

江藤氏が最期に到達した地点は、滅亡の賦をどう唄うか、という問題意識に尽きる。それは西郷であり、大和魂や日本文学や日本そのものの滅亡の賦である。西郷はまさに全的滅亡のために幕末を生きたような男であり、戦後の閉塞と不在を、滅びに向かって生き抜いた江藤淳の人生もそれになぞらえ得るかもしれない。

洋行帰りの合理主義者が何人も薩群に参加していた。西南戦争は決して田舎の士族と近代国家との戦いではなかったのである。
保田與重郎の西郷論とも重なって読める。桶谷秀昭の『草花の匂ふ国家』ともあわせて読むとよいだろう。
初心者には難しいかな??
この本は、西郷さん関連の知識がない人にとっては、ちょっと内容を理解するのが難しいでしょう。私自身は、西郷さん関連の本を多く読んでいたので、すんなりと入っていけましたが。

まあ、内容的には、今までの西郷さん関連の本に書かれていた事実に、江藤氏なりの考え(非常に叙事詩的)をちょっと付けただけかなー??という感じですね。やはり、司馬さんの本を先に読んじゃうと、物足りなさを感じてしまいました。

西郷さんに関しては、何故西南戦争を起こしたか?という題材で、西郷さんの心情を解きほぐす事は、後世の作家にとっては、ほとんど無理だと思います。


忘れたことと忘れさせられたこと (文春文庫) 忘れたことと忘れさせられたこと (文春文庫)
江藤 淳   文藝春秋   文藝春秋  
日本は『無条件降伏』していない!
ポツダム宣言や当時の米国政府文書は日本の降伏が「条件付」であり、日本の占領は、その条件の遂行を監視するための「保障占領」である、と確かに明示している。無条件降伏は日本の軍隊だけにあてはまる。

『無条件降伏』でなければ、憲法の起草・押し付けや、厳密な検閲に隠れた歴史改竄、日本人の「精神の武装解除」を目的とした神道指令と言う名の伝統破壊などなど、占領軍の行為は、国際法上「保障占領」に許される行為の範囲を大きく逸脱したものといえる。

これら米国の国際法違反行為(?)を声を大にして訴えたいところだが、占領中及び講和発効から今日に至るまで、占領軍の協力の下勢力を伸ばした日本人共産主義者らの存在が、事態を複雑にしている。

降伏直後には、日本人は「物質的に敗北したが、精神的には負けていなかった」と外国人ジャーナリストも認めている。日本人が庶民に至るまで「不屈の闘志」を見せ付けたからこそ、その国民殆ど全てが敬愛する天皇にGHQも手は出せなかった。よって、日本の「国体」即ち「主権」は首の皮一枚で残された、といえる。

こうした大和魂をもつ日本人は戦後、「日本精神を打ち砕く」という共通の目的で手を取り合ったGHQと、日本人自身の左翼分子両方を相手に戦わねばならなかった。そして、その戦いはいまも続いている。

この本には、江藤氏の、日本人としての日本への情愛が満ち溢れている。冷静な学術的考察で『無条件降伏論』を論破しながら、この異常事態を打開したい、という氏の溢れる様な熱い想いが伝わってくる。
日本と大和魂を愛する全ての人にとっての、必読書である。
忘れてはならないこと
50歳の声をきく頃から、なぜか自分の生きてきた戦後の時代を通覧してみたいという思いが強くなってきた。となると出発点が終戦になるのだが、去年江藤さんにやっと行きついた。「落葉の掃き寄せ 1946年憲法ーその拘束」「閉された言語空間」と読み、三部作の最後に本書に至ったのだが、とにかく江藤さんの執念、文筆を業とする人間として真実にいかに迫っていくのか、原典・資料への(読む身としてはつらいほどの、もういいのではそこまではと感じるほどの)徹底した追求と文章・内容の分析に圧倒される。この書は占領国アメリカによる「ポツダム宣言」を反故にしての日本潰しがどのようになされたか、そして今の時代までどう繋がり、その呪縛から抜け出せずに「上目づかいにアメリカをうかがって」自分というものの無い日本国の今をくっきりと浮かび上がらせている。アメリカの占領時代を忘れてはならない。


アメリカと私 (講談社文芸文庫) アメリカと私 (講談社文芸文庫)
江藤 淳   講談社   講談社  
江藤淳と小田実
60年代初頭のアメリカ体験記である本書は、明らかに、小田実の「何でもみてやろう」を意識して書かれている。安保闘争に参加せず、フルブライト奨学生としてアメリカに赴き、世界を放浪し、在野の文人として「難死」を説くベトナム反戦運動の闘士になっていく小田。安保闘争に参加し、大学を追われ、在野の身分でアメリカに赴き、文芸評論家として保守派の論客になっていく江藤。ともに「ナショナル」を課題としつつも、好対照な道を歩んだ二人である。本書の冒頭で江藤は、小田のことを「おりた」人間だとやや侮蔑的にいい、かつ、エスタブリッシュとして鳥瞰的にアメリカを描くことを拒否している。本人が思っている以上に、本書は自意識過剰の書であり、(あとがきで加藤展洋がいっているように)「イヤミ」な書である。ただ、アメリカにも、そして現在日本にも違和感をもつという居場所のなさからの執拗なアメリカ観察が、独特の論点を紡ぎ出していることも事実である。アメリカへの違和感が、戦後日本への違和感へと直結していくその後の江藤の仕事の出発点がここにある。ともに「反」米を志すことになった江藤と小田。二人の軌跡を念頭におきながら本書を読むと、実に興味深いのだ。
硬くて軟らかいもの
小説にしても随筆にしても、内容・文体ともに軟らかいものを読み続けると「硬質」なものが読みたくなる。ただし、硬ければ硬いほどよいと言うことはなく、削れる程度に軟らくないと、歯が立たない。

そんな事を思いながら、「久しぶりに江藤淳のものが読みたい」と思っていた矢先に出版されたのが本書であった。『漱石とその時代』以来、江藤淳はだいぶ読んだが、『アメリカと私』だけは今まで拾い読みしただけだった。
本書を通読してみて、江藤の米国滞在と、漱石の英国滞在の様相が全く異なっているのに、改めて驚いた。時代も違えば、国も違う。そう言ってしまえばそれまでだが、江藤の場合は「妻帯」であった事が大きく影響しているのではないか。

異国で一人というのは矢張りつらい。愚妻(通説に従えば)であろうとなかろうと、
漱石がロンドン滞在に妻を連れて行っていたらどうなっていたか。また逆に江藤淳が単身であったらどうなっていたか。本書を読み終えて、こんな事を漠然と考えている。
おもしろい内容だが、かといって
文庫本にすべき、おもしろい内容だが、かといって世紀の傑作エッセイかと言えば無論そんなことはない。
江藤はその処女作「夏目漱石」が一番おもしろく、歳をとるにつれてダメになった文芸評論家だが、最後は妻の後追い自殺に終わるその哀れな生涯は漱石の哀れさを想起させる。

文学と私・戦後と私 (新潮文庫) 文学と私・戦後と私 (新潮文庫)
江藤 淳   新潮社   新潮社  

妻と私 妻と私
江藤 淳   文藝春秋   文藝春秋  
愛の形
漱石評論家として名を知られる氏の自殺を知ったときは、衝撃だった。それから数年たち、この本を読んで、胸が熱くなった。
なんという、愛の形か。
妻亡き後、この世をさった氏は、あの世というものがあるのなら、そこでまた夫婦として暮らしているのだろうと信じられるような、一作である。

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