梅原猛の授業 仏教 (朝日文庫) 梅原猛の授業 仏教 (朝日文庫)
梅原 猛   朝日新聞社   朝日新聞社  
日本での大乗仏教思想の概観を知るには手頃な講義録
中学生を対象に著者念願の「仏教」についての授業を行った講義録なんですが、これだけの内容を中学生が本当に理解できたのだろうか、という疑問がちょっと湧いてきました。授業はもう少しかみ砕いた表現で行われたのかなという気もします。生の授業を一緒に受講したかったなという思いです。
「カラマーゾフの兄弟」から授業が始まり、世界の文明には宗教が根底に存在すること、宗教と道徳の関係、西欧の聖者の生き方と釈迦の生き方の思想的違い、大乗仏教の日本への導入とその興隆史・宗派の基本思想などに、著者自身の思想遍歴もまじえ、空間軸と時間軸の広がりの中で仏教を概観できる組み立てになっています。宗教の必要性と仏教思想を理解する入門書として読みやすいものでした。
人生に宗教は必要かというテーマでの中学生の討論には、なるほどと思わせる諸意見が出ていてなかなかおもしろかったです。
仏教の平易な入門書〜自利利他の精神
梅原氏が実際に中学生に仏教の授業を行なった内容を本の体裁にしたもの。難解な概念や用語の解説はなく、仏教を非常に分かり易く説明していると思う。姉妹編に「道徳」があるが、本書でも宗教と道徳を巧みに織り交ぜて語っている。私を含め宗教に無関心の方でも自身の生き方の見直しと言う意味で参考になると思う。"自利利他"がキーワードか。

まず文明と宗教の緊密な関連性を分かり易く説いて、道徳(生きる上の規範)が宗教に基づいている事を強調する。また、大乗仏教と小乗仏教の違いをこれ程明快に説明した本はないだろう。仏教の四諦、苦諦、集諦、滅諦、道諦についても平易に解説する。「諦」は単に諦めるの意ではなく「真理を悟った上で受け入れる」の意の由。日々の苦しみに対して役立つ考え方である。仏教の重要概念の「空」をイチローが実践していると言う挿話も面白い。大乗仏教が残っているのはチベット以外では日本だけと言う話で、日本人の精神、特に「和の精神」との親和性が聖徳太子と絡んで語られる。日本における神仏習合の概念も説く。続いて、行基、最澄、空海について述べられるが、授業場所が真言宗系の学校と言う事もあり、空海と密教が独立章で語られる。梅原氏は空海を高く評価しているようだ。密教が現世肯定だとは初めて知った。関東では不動信仰が多く、関西では観音信仰が多いと言うような挿話も良いアクセントになっている。曼荼羅の解釈も平明かつ深遠。仏教を大衆化したのが鎌倉仏教だと言う説明も分かり易い。石原莞爾はともかく、宮沢賢治が日蓮の思想に影響されていたとは意外。最後に遺伝子に仏教の精神を見る。

昨今、荒廃していると言われる現代人の心のあり方を見直すと言う意味でも、仏教の本質と道徳の重要性を平易に説いた良書。
わかりやすい仏教通史とその矛盾
洛南中学で行なわれた講義の記録。中学生を相手とした話だけに、わかりやすく整理されており、手に取りやすい日本仏教史の良書だろう。ただ、著者の根底には、仏教そのものを伝えたいというよりも、宗教的背景を持つ道徳を再建したいという思いがある。「われわれは宗教を失った時代に生きている。宗教を失ってもいいんですが、心配なのは、それによって道徳も失っているんじゃないか、ということです。」(26頁)緒論で述べられるこのような立場は、結論部でも確認されている。このような立場は仏教の効用を説くもので、仏教の真実に依るものではない。結局のところ、著者は仏教に信頼を寄せてはいないのだろう。本書での梅原氏の仏教理解は、大乗仏教の自利利他は遺伝子のはたらきそのもので、「遺伝子の不死」を信じることが現代的な仏教信仰だという立場のようだ。(236頁以降) これでは日常的な自我の肯定に終わってしまう。仏教が教える世界の大肯定とは、むしろ、自分の立場から世界を恣意的に歪める日常的自我が否定されたところに啓かれるものではないだろうか。現代人として仏教を納得できるように解釈するということは(遺伝子論)、大切な営みだ。ただ自己解釈に終わるかぎり、それは解釈する自分と解釈される対象(仏教)との分裂を残す。このような見る(解釈する)自分と世界の分裂がニヒリズムの基本構造であり、それが人間と人間あるいは人間と世界の関係(道徳)の破綻をもたらしてきたのではないだろうか。著者が再建しようとする道徳は、著者自身の立場によって崩されてしまう。そのような思いが読後に拭えない。
梅原猛じゃなくっていい
仏教の説明ばっかしでなにも語っていない
こんなつまんない授業だれでも(?)できる
彼にしかできない、仏教に対する思い・エピソードを語ってほしい
単純に「梅原猛の」は余計だ
仏教≠仏教史
 梅原猛氏が、ある中学校で講義された内容をまとめた作品。
 日本文化、とりわけ仏教に造詣の深い梅原先生の著作なので期待して読んだものの、やはり限られた時間のなかで分かりやすさを重視したためか、消化不良の感が否めなかった。特に仏教の根本精神についての掘り下げにはほとんど紙幅がさかれておらず、四諦、八正道といった内容にも通り一遍の解説で留まっているのが残念。
 宗教の必要性について自分の頭で考えさせ、比較宗教論を比較文化論と世界史の視点から簡単に触れつつ、日本仏教の簡単な歴史を辿るといった構成になっている。

 梅原先生の気持ちは充分に伝わってくるが、読者を教化するというまでの説得力も、知識の解説も、論理構成も不十分であり、中途半端な内容になってしまっている。
 かなり感受性が高く、仏教に関してある程度の教養があり、梅原先生と同じ年代の方であれば、その語り口や真心、子供達への姿勢という点で学ぶ点はあるのではないかとも思うが、今の勤労世代に訴えるには、略史は省いたうえで、仏教の精髄に議論を絞り、現代における実例を用いながら腑に落とすというような構成が必要であろう。
 仏教を学ぶとは、仏像や歴史を学ぶということとは掛け離れているのであるから。


隠された十字架―法隆寺論 (新潮文庫) 隠された十字架―法隆寺論 (新潮文庫)
梅原 猛   新潮社   新潮社  
ほとんどミステリー小説みたいな面白さ
1972年に書かれた法隆寺論です。中盤の多くのページを「謎の解決への手がかり」として割いて、藤原氏がいかに勢力を伸ばしていったかという事、そしてその礎となり権力抗争に敗れ去った人たち。有名な古典を始め、現存する資料や寺社仏閣、仏像、建築その他様々な事物から非常に緻密になされます。この考証が甘いとトンデモ本の類に転がりかねないので微妙なバランスで踏みとどまっています。古代の権力抗争、政治の裏側みたいな物はいつの時代でも人々の興味の的ですから本書の面白さの基になっている。ただ、思わず全面的に信用しそうになりますが、これはこう思う、いやそうに違いない、と言った感じの論調も多く、始めに結果ありき、いやここでは梅原氏の信念ありきで、悪く言うとどうとでも解釈出来る事を無理矢理に都合よくこじつけているとも取れる。これは程度の問題もあり、全てが全てそうだとも言い切れないので読者の裁量次第ですね。ただ作者本人も書いている様に細かな間違いは将来見つけられるかもしれないが、その様な重箱の隅を突く様な批難では無く、全体的に見ろと言う意味の事を言っている。これには確かに賛成出来る。そして古代の物事を現代人の常識で見るから誤解が生まれると言う様な事も再三言っていたと思うが、確かにそれに即して素晴らしい視点で論が展開されている部分もあれば、そう言う作者自身が気付かずに自分の常識、現代の常識を前面に出してしまっている部分もある。まあ難しい問題ですね、これは。最後にこの「隠された十字架」というタイトルは意味深というか、これに関しては直接本書では触れられていないのです。作者も最後にこの謎を暗示するかの様な事も書いているが、この時点ではまだ裏付ける資料の研究が全然、進んでいなかったのでしょうね。とりあえず法隆寺からという感じで、おそらく本書は作者が本当に探求したかった大きな謎のほんの表に出た一部分だけに留まっている。ぞの全貌の研究は多分35年経った今もなされていない。その謎とは、景教(原始キリスト教)がいつ日本に入ってきて、どれくらい影響を及ぼしたか?またどの様に消えて言ったか?聖徳太子を含む蘇我氏がどの様に関わるのか?という様な事ですね。前述した様に本書ではそれらに付いて全く触れられていません。
哲学者の夢か
現在見る法隆寺が再建されたものであることは、明らかであるが、いつ、誰が、何のために再建したのか日本書紀は何も語らない。そこで謎が生まれる。
哲学の徒である梅原猛氏は、法隆寺『資財帳』の記録を見てデルフォイの神託を受けたが如く「聖徳太子の怨霊鎮魂仮説」が脳裏に閃めいた。その仮説によると、今まで謎とされてきた多くの事実が合理的に説明できることに気がついて本書が執筆された。

ソフィストに立ち向かうソクラテスの如く、氏の筆は勇猛果敢である。結構、厚い本にもかかわらず読者を引付けて止まず一気に読ませる。特に圧巻は夢殿の救世観音。「怨霊史観」によるおどろおどろしい世界が現出する。本書の初出は1970年代初め。古代史ファンを大いに増やした貢献を評価して星4つとした。
尚、他のレビュアーも触れているが、最近の知見を踏まえた武澤秀一著「法隆寺の謎を解く」を合わせて読むことをお勧めする。

愛読者として
大変話題を集めた本で、わたしも大いに魅了されてきました。梅原氏の名はこの本によって一躍、知れ渡るようになり、ついには文化勲章まで…。しかし時間が経った今、大分ほころびが見えてきているようです。
わたしが気づいた範囲でも、美術史家の町田甲一氏が法隆寺夢殿の救世観音について梅原氏が普通考えられないような間違いをしていると指摘しています(『大和古寺巡歴』講談社学術文庫)。
また最近では建築家の武澤秀一氏が、中門の真ん中に立つ柱について梅原氏は全くの事実誤認をしていると指摘しています(『法隆寺の謎を解く』ちくま新書)。

これらの指摘は専門家によるきわめて具体的なもので、梅原説の根幹にかかわるポイントです。愛読者としてはぜひ著者の見解が知りたいところですし、既に読んだ方、これから読む方にはぜひ上記の本を併せて読んでいただきたいと思います。
怨霊説の現在は…?
30年ほど前に発表された梅原氏のこの法隆寺論は日本史、建築、美術史等々のジャンルを総動員して法隆寺の全体像に迫る試みであった。その結論は聖徳太子の怨霊が法隆寺に封じ込められているという、驚天動地のものであった。
同時にかれはみずからを哲学者と位置づけ、反論するなら揚げ足取りではなく、全体像をもって反論せよ、と表明していた。その言やよし、である。

多くの読者はかれの熱気に圧倒され、とくに当時の若者層は結論をそのまま信じこんでしまったようだ。学者間で評判は芳しくなかったが、正面切っての反論はなぜか回避されてきた(触らぬカミにタタリなしと、著者のパワーを恐れたか?)。かれの影響力は各界におよび、その結果、文化勲章という快(怪?)挙にまで至る。学者のふがいなさは今に始まったものではないが、この間、怨霊説は浸透し、いまなお信じている人も多い。

全体像を求めるかれの姿勢そのものは今も評価されようが久しぶりに再読し、思い込みに基く推論、それがあれよあれよという間に次々に断定に変わってゆく強引さが目についた。もちろん読者がその熱さをよしとし、酔うのは自由だ。しかし面白ければそれでいいというのでは思考停止、知の衰弱であり、著者も望まないはずだ。結論に関していえば、建築用材の伐採年など近年、明らかになったデータなどに照らしても、重大な疑問点があるのである。というか、そもそも論の出発点を疑う必要があり、再検討が求められる。

最近、梅原説に触発され、かつ氏とは別の角度から、全く新しい法隆寺の全体像が建築家によって打ち出された(武澤秀一『法隆寺の謎を解く』ちくま新書)。梅原説は“引き金”となることにより、この有力な新説の誕生に貢献している。十分に触媒の役割を果したのである。哲学者・梅原氏としても望んだところであるはずだ。併読されるようお勧めしたい。
怨霊史観から見た聖徳太子
作者は哲学者として名を成していながら、歴史の謎に次々と挑戦する変わり種。「怨霊史観」の提唱者として知られる。本作では聖徳太子と法隆寺に関して論じている。タイトルがこうなっているので、ネタばらしにはならないと思うので書いてしまうが、骨子は聖徳太子がキリスト教信者で法隆寺には十字架が隠されているという話である。そして、法隆寺は聖徳太子の怨霊を鎮魂するために建立されたのだと。まさに、"怨霊史観"の面目躍如である。

考えてみれば、キリスト教は古くから景教として中国に伝わっていたのだから、太子がキリスト教に通じていても不思議ではない。そして私が小さい頃から思っていた以下のような疑問に見事に答えてくれるのである。

日欧の聖者である聖徳太子とイエス・キリスト(の伝聞)は何て似ているのだろう。旅先で人々の病気を治したり、水を湧き出させたりする等の数々の奇跡を起こし、2人共馬小屋の前(あるいは中)で生まれるなんて(聖徳太子の生前の名は厩戸王子)とても偶然とは思えない。これも太子の関係者が、太子を偲び、イエス・キリストのイメージを太子のイメージに重ねて伝承したと考えれば辻褄が合う。そんな空想を膨らませてくれる楽しい啓蒙の書。

神々の流竄(ルザン) (集英社文庫) 神々の流竄(ルザン) (集英社文庫)
梅原 猛   集英社   集英社  
"怨霊史観"の原点
著者は哲学者として名を成していながら、歴史上の謎に次々と挑戦する変り種。"怨霊史観"の提唱者として名高い。本書はその歴史観を完成させる前の作品で、代表作「隠された十字架」、「水底の歌」以前に発表された論文を纏めたもの。著者自身、この時点の思想は未完成と語っており、それだけ荒削りな部分も多いが、逆にその分勢いと情熱に溢れている。

基本的には記紀等の神話の研究を土台にしているが、メインとなる主張は出雲神話が出雲に元々伝わる神話ではなく、出雲は「神々の流竄」の場所であったという点である。つまり、神々が大和あるいは九州から出雲に追い出されたという主張である。そして、記紀の神代巻は「神々の流竄」を伴う宗教革命であり、この革命の推進役は藤原不比等だったという興味深い問題提起をする。この論点のうち、記紀の実質的作成者が不比等であった事は今や定説と言っても良いだろう。

この他、前半では「ヤマタノオロチ=三輪山」説、「イナバのシロウサギ=宗像神」説等、相変わらずユニークな論を展開してくれる。本書の発想がその後"怨霊史観"に結び付き、冒頭の2つの画期的代表作を産み出すキッカケとなった。著者の古代史研究の原点となった活力溢れる良書。
推理小説よりも面白い
<推理小説よりも面白い>
というのが読後の率直な感想です。

古事記の真の著者は誰なのか?
古事記と日本書紀の記述内容に食い違いがあるは何故なのか?
日本の正史である日本書紀に古事記の存在そのものが無視されたかの
ように一切の記述がないのは何故なのか?

学説的な正しさを云々する素養を私は持ち合わせていませんが、
筆者の疑問・謎を追いかけていく迫力に惹き込まれて、
一気に読んでしまいました。

面白かった!
梅原ワールド!
ヤマタノオロチや、因幡の白ウサギといった、我々にはなじみ深い古事記のの一説に対して、独自の解釈を試みている。あとがきの中で、著者自身その説の「誤り」を認めてはいるが、説のユニークさとその検証の説得力から、ついつい引き込まれてしまった。また、タイトルにもなっている「出雲神」の 流竄の話や、古事記・日本書紀の真の作者を解き明かす話の中で展開される、著者のダイナミックかつ繊細な自説には、古代へのロマンを膨らませてくれる楽しさが満ちあふれていた。


神と怨霊―思うままに 神と怨霊―思うままに
梅原 猛   文藝春秋   文藝春秋  
怨霊になった偉人が神に祀られた
 洋の東西を問わず、権力者とは別の価値観で生きる人間は、当然のこと権力者との対立を生み、彼らは破滅に直結していく。わが国に例をとれば、歌道あるいは文学の神というべき柿本人麻呂、学問の神というべき菅原道真、演劇の神というべき世阿弥、茶道の神というべき千利休は、いずれも死罪あるいは流罪となった人間である。しかし、彼らは非業の死を遂げることによって【怨霊】となり、彼らを罪した権力者に恐怖を与えた。そうして、神に祀られ、それぞれの分野の祖となった彼らを【神】とすることによって、文学や学問や演劇や茶道は、この国で見事に栄えたと言える。
 もう一人、怨霊となり、神になり、更に仏となった偉人がいる。聖徳太子である。太子は生前において偉大な政治的業績を挙げたが、死後彼の子孫が時の政府によって滅ぼされたことによつて【怨霊】となり、神としてではなく【仏】として祀られた。親鸞は太子を「和国の教主」と呼ぶが、太子は生前の偉大な業績によってそうなったのである。
 日本においては、学問や芸術は怨霊によって【永遠】になるという皮肉がある。

梅原猛の授業 道徳 (朝日文庫 う 10-3) (朝日文庫) 梅原猛の授業 道徳 (朝日文庫 う 10-3) (朝日文庫)
梅原 猛   朝日新聞社   朝日新聞社  
道徳の教育がされてないと言い切るのがいい。
進学校の中学3年生の道徳の授業として、日本の歴史や宗教を簡潔にわかりやすく説明しながら、道徳とは、ストレートに語るのが心に響きました。
子供の頃から、ありきたりの道徳授業を受けてきて、実につまらなかった記憶しか無いのだけど、「戦後は道徳の教育をしていない」と言い切り、戦争やウソ、いじめ、などなど人間としてしてはいけない戒律を説き、歴史家・哲学者ならではの切り口で、なるほど、と思わせるところがたくさんありました。
シンプルでわかりやすい。
ぜひ子供にも読ませたい。

私はなぜ、そう思うのか。
薦められて購読した本。「道徳は動物にもある」「道徳の根源を母の愛においたこと」この二点が本書の特徴的な論点です。高校生への授業が要約されて、語り口調がやさしく、例も多岐にわたり、「道徳」というテーマでしたがあきずに読めました。自身の倫理観、価値観がつくられた根拠、因果を考えるのにも良い本です。宮沢賢治や夏目漱石などにも新たな関心が湧きました。

日本の深層―縄文・蝦夷文化を探る (集英社文庫) 日本の深層―縄文・蝦夷文化を探る (集英社文庫)
梅原 猛   集英社   集英社  
東北を見る目が変わる本
Amazonレビューを見ると、この本についてのカスタマーレビューが未だないとのこと、実に不思議なことだ。と感ずるほど、この本を読了して無性にその感想を書きたくなった。
著者50歳前後の本で、実に生き生きと全ての事象に哲学者の目をもって対処している。
諸処に多忙なのでよく見られなかったなどと書いたのは余計なことであるが、著者は実際に見る前に対象物に対する考察を十分にして書いているようである。
書斎の外に出る学者の典型的な一書である。

「太陽の哲学」を求めて 「太陽の哲学」を求めて
梅原 猛   PHP研究所   PHP研究所  

聖徳太子 (1) (集英社文庫) 聖徳太子 (1) (集英社文庫)
梅原 猛   集英社   集英社  
聖徳太子(1)
聖徳太子の人物像をすぐに知れるものではないが、当時の日本の外交政策や聖徳太子がどのように日本をつくろうとしていたかを探る導入部分。高句麗、百済、随などの歴史についてもおそらく、他の本より詳しく論じられているのではないかと思う。そして、様々な史料の比較も怠っていないので、

自分の思うところも比較しながら読み進めるものだと思う。作者は強い信念をもって書いてはいるが、史料を多角的に検討、比較してより矛盾のないものを正論として考えるあたりは、客観的に歴史を捉えていて作者に影響される部分は少なく、聖徳太子の時代の日本のみならず、中国、朝鮮にも興味をわかせる作品になっている。


水底の歌―柿本人麿論 (下) (新潮文庫) 水底の歌―柿本人麿論 (下) (新潮文庫)
梅原 猛   新潮社   新潮社  
梅原日本学の端緒となった人麿評伝
人麿の時代、台頭しつつあった藤原氏による律令政治の形成と確立のために宮廷の祭祀芸能は一旦根絶されるが、この転機に初期王朝歌人額田王や歌聖人麿が如何なる境遇に陥ったかは今なお不明である。全国の柿本神社が列島の各地に点在しており、その縮図として石見の国(現在の島根県西部)を人麿終焉の伝説地が縦断している。彼の終焉の地が畿内の防波堤にでもなるかのように分布していることで、人麿個人における晩年の〈真実〉は永久に説明できない。藤原氏(律令政治)にとっては悪人、罪人に過ぎない人々を鼓舞する人麿の言葉は、史実を語り尽くせるものではあり得ず、真実の〈歌〉の言葉として、歌聖の言葉としてのみ辛うじて、しかしこれほど力強く生き残った。このことが人麿自身の望んだことであるかどうかは、それが〈真実〉に関わる以上不明である。この歌聖終焉の地がはっきりと此処であるとは同定できないようなかたちで散在している現在の文化史上の事実を、当時短歌界の大御所だった斎藤茂吉が苦難の踏査、膨大な考証の末鴨山湯抱説として結論付けた。その論考は茂吉全集で読めるが、若かりし梅原さんは当時これに強く反発しつつ、人麿の死が水死、それも流刑死であることを推論していく。梅原日本学の端緒となった、古代政治に対する告発の書でもある。
 続編の人麿歌集論『歌の復籍』は今絶版で読めず、文庫化が望まれる。
 人麿論はその後、『古事記』人麿原作者説となり、仏教論と並び梅原さんの日本思想論の双極にまで深化しているが、一般にもあまり認識されていないのではないだろうか。
疲れるよなぁ
この本は、柿本人麻呂の謎を解くはずでは・・・?と思わされます。
彼の説が正しいという理由で、賀茂真淵を叩いているように見える内容になっています。彼の説を述べることと、賀茂真淵の説が合わないことは別問題であり、叩くだけではいけないようにも思います。

最澄と空海―日本人の心のふるさと (小学館文庫) 最澄と空海―日本人の心のふるさと (小学館文庫)
梅原 猛   小学館   小学館  
日本仏教の基礎を確立した巨人の生涯と思想が丁寧に説明されています。
後に鎌倉仏教を生む母体となる、生きとし生けるものすべてが仏になり得るという仏性論の確立者・最澄。真言密教を中国で2年足らずですべて修得し、日本に帰国後理論をさらに深めた万能の天才・空海。最澄が旧仏教側の僧・徳一との壮絶な論争の結果として上記仏性論を確立したことは司馬遼太郎の街道をゆくシリーズの白河・会津のみちで、比叡山に篭る感動的な決意表明は同シリーズの叡山の諸道で触れられている。また、後世の日本仏教に与えた影響の点では、碁に例えると最澄は木谷実、空海は呉清源で、鎌倉仏教の開祖が皆「比叡山大学」出身であるように教育者としては最澄の方が勝り、最澄の教えに鎌倉仏教の萌芽が含まれていたのに対し、真言宗は空海が偉大すぎて理論面では空海以後の発展がなかったこと、その2人の対立は学習における文献重視v.体験重視に帰着し、今にも通じるという明快な説明は逆説の日本史第6巻にある。本書はそれら書物をかじった人はもちろん、日本仏教史初心者にもお薦めの本だ。全体の2/3で最澄、残りで空海について、その生涯・思想の奥義が解説されている。特に最澄に関し、仏性論だけでなく、戒律論・秀逸な教育論がわかりやすい。大乗戒壇設立主張時にも旧仏教との論戦があった。悲壮感すら漂う求道者である。それに対し、密教の奥義の説明はかなり噛み砕いてあるものの、私が行を体験しないことも原因だろうが、難解だ。説明箇所によって重視される本が違う混乱もある。しかし、世界的な密教の発展史、即身成仏に代表されるように現世を重視すること、俗世をうまく立ち回った印象が強い空海が常に山での孤独な修行への衝動を抱えていたことがよくわかる。対立はあるが、仏教が山岳修行と結びついて神と仏が融合し、自然を重んじる日本仏教の親となった点で両者は共通する。最も澄む、そして空と海。名の響きが美しい。日本人の心の基盤の理解に資する本書は良書です。
私のような入門者にとって最適な平安仏教の啓蒙書
私のような仏教の知識に乏しい(ほとんど無知に近い?)人にとって、平安仏教思想の創作者である空海、最澄の実像を垣間見る上でとても読みやすい良本であると思った。空海の真言密教信仰の部分については、氏はおそらく極めて解りやすく説明しようと努めているとおもうのだが、私のような宗教・哲学音痴にはそれでも理解が追い付かない部分もあったが・・・。ただ、極めて大ざっぱなのではあろうが日本仏教について少しは解った気になり、今後理解を深めていきたいな〜と好奇心を大いにくすぐらせてくれた。梅原氏の啓蒙精神に大きな敬意と感謝の意を表したい。
空海を知るには最澄を知るべし
空海は、同時代の先輩格であり、エリートであった最澄との対比で見ることで、輪郭がより際立ってくる。二人は偶然にも同じ遣唐使団で唐に渡っている。最澄は国費で、空海は自費。まずは本書でこの辺の事実関係を押さえた上で、HNK取材班の「「空海の風景」を旅する」を読むのがオススメです。

この著者の文章は、他の著作もそうなのですが、何とも心が和みます。瀬戸内寂照さんが、「小説を書いたら私くらいにはなれる」と言ったとか何とかいう話もなるほどと思います。

なお、最澄の偉業を知りたい方は、本書の後に「三人の祖師―最澄・空海・親鸞」を読まれる事をお勧めします。

それぞれの彫りは浅いので星二つとしましたが、まとめ或いは入門としては好いと思ひます。
初心者向きです
色々なところに発表された文章を纏め上げた、という構成なので、
中で重複する記述がされているところも散見されます。
だからこそ、私のような初心者にとって読みやすい本でした。
特に最澄をあつかった第一部は、文章自体も非常に読みやすいです。
空海の思想にも触れられているのですが、分量が限られているためか、
「なんだかすごいらしい」という以上には理解が進まなかったのが残念です。

それぞれをもっと深く
日本の仏教を語る上で重要な2人の偉人につての本です。ページ数はほとんど半々なのですが、作者は空海の方が思い入れがあるようです。私は最澄の方が好きなのですが・・・。2人を1冊の本にするより、それぞれをもっと深く書いた本を読みたいと思いました。ただし、2人に興味がある人なら充分に楽しめると思います。

1   |   2   |   3   |   4   |   5   |   6   |   7      »      [46]
合計件数:453  合計ページ数:46