うらおもて人生録 (新潮文庫)
色川 武大 新潮社 新潮社
フォームとスケール
ギャンブラー阿佐田哲也の別名を持つ作家の人生論。
この本で特に目をひかれる点は、
「9勝6敗のフォーム」だと思う。
著者は「プロとして長期的に食べていくための持続のコツ」と言っているが、
生きていく中での好不調の波についての原則のようにも取れる。
だけど、もう一つ大切なのは、
「スケール(大事なときにチャランポランになれる能力)、
(自然に他人を愛していけるような土台)」ではないだろうか。
こちらの方に目を向けないと、著者自身も戒めているように
「フォーム」も単なるわがままな損得勘定になりかねないだろう。
異色の人生論
著者が自分の人生を振り返りながら、若者に向けて書いた人生論。運の良し悪し、運の使い方など、独特の視点から人生を語っているところが面白い。運の良し悪しと言っても、占いとか風水とかいったような非科学的なことを書いているわけでは決してなく、「なるほど」と思わされてしまう。この本を読んで、小説家というのは、さすがに人間観察のプロだと思った。
「座右の書」です。
私にとっては「座右の銘」ならぬ「座右の書」といったところ。
若者に対しての人生アドバイス、といった体裁の本だが、私のような50歳前の中年男にとっても、非常の含蓄のある有意義なアドバイスである。
この色川武大や伊集院静のような人たちが持つ、ある種の「凄み」のようなものは、やはりほかの作者からはあまり感じることのできない貴重なものだと思います。
「叔父さん」語録
ホームドラマのモチーフで「やもめのおじさん」というのが昔はよくありましたね。
「男はつらいよ」の「寅さん」なんかはその典型です。
たとえば、一人の少年が、学校で挫折し、親兄弟から白い目で見られ、世間の人はみな自分よりえらく見え、顧みて自分がずいぶん惨めに見える、そんな屈託を抱いているとき、「やもめのおじさん」は登場します。「おじさん」はたいてい、少年に向かって、「あのさ〜」から始まって「ま、こんなこといってる俺だってざまぁないんだけどさ」で終わる、叱責とも慰めともつかぬ言葉をかけてくれる――
平成という世相のせいか、こういうホームドラマは少なくなりましたね。またあっても、「あのさ」と声をかけてくれるおじさんは出てこなくなりました。この本の本質は、そんな「あのさ」と声をかけてくれる「おじさん」の情緒であるといっていいでしょう。それを愛というのかやさしさというのかは知りませんが、社会が今それをなくしているのなら、社会はもっとそれを惜しむべきでしょう。
青少年向けに書かれた文章ですから、そういった世代の人たちに読んでもらいたいのはもちろんですが、大人たちこそ一読し「ま、こんなこといってる俺だってざまぁないんだけどさ」という目線で話ができる人間のえらさというのを、いまあらためて実感すべきではないかなという気がします。
あたたかい!
多くのレビューに私と同じ感覚があり、嬉しかった。色川氏の小説を私はうまく感じとることができないのだが、この本は、隣にどーんと色川氏が座っていて、どんな人も隣に座るのを許してくれるような感じです。そして座っているだけで心地いい。たまたま本屋でみかけて買ったのは、22歳23歳?くらいのころ。何年に一回読み返し、そのたびに発見がある。本当に大きな懐に守られているような、そういう感覚のある本です。こういう本は他に知りません。
怪しい来客簿 (文春文庫)
色川 武大 文藝春秋 文藝春秋
恐ろしく、濃密な空間
これほど濃密な本は他にはない。そう思わせる書物です。
「右向け右」は戦時中とはいえおそらく他者とはまったく違う空間を生きた青年の世界がおどろおどろしくも美しい。
この体験記エッセイは絶対に誰にも真似はできないでしょう。
「墓」では冒頭からいきなり「亡くなった叔父」が訪ねてくるというところから書き出されます。
単なるナルコプkじゃレシーなどではかたづけられない彼と彼の一族の物語。
在るとはどういうことなのか。
違う世界を覗き込んでみたい方におすすめです。
やさしい視線
この本を読んで感じることは、奇怪なもの、醜悪なものに対する著者の優しい、受容的なまなざしである。このまなざしは、恐らく、著者自身が、自らを醜悪なものの一人とみなしているところから生まれるのであろう。つきつめてみれば、人間は皆醜なものなのだ。自分の中にある醜悪さに感づいている人には、お勧めの本である。
この本にであったのは、今から20年ぐらい前のことだ。それ以来、折りに触れては、この本が読みたくなる。良書である。
ぎりぎりの小説
ここに出てくるのは、あるいは作者も含めて、
みんなどこか屈折してしまったひとばかり。
いろんなものがいっぱいに溢れちゃってて、
心の表面張力ぎりぎりって感じになってて、
もうほんのちょっとの加減でこぼれそうなんだけど、
まあ、なかにはこぼれてしまったひともいるんだけど、
それでも、ぎりぎりのところで、生きてる。
あるいは、生きてた。
そうだよな、それだよな、文学って、と思った。
色川武大のまなざし
色川氏の優しくそして辛辣なまなざしによって繰り広げられる短編集。社会の隅の隅のさらにその隅に居る人々のありさまを、これほど生々しく描ける作家は他にいない。淡々とした文体で、しかしながらヴィヴィットな情景を描きだす、息を呑む最高の傑作。
離婚 (文春文庫 (296‐1))
色川 武大 文芸春秋 文芸春秋
百 (新潮文庫)
色川 武大 新潮社 新潮社
買ってよかった!読んでよかった!
近所の本屋さんでさりげなく平積みにされており、思わず手に取って買ってしまったのですが、買ってよかった、読んでよかったです。何が良かったかって、文章がとりわけ良かったです。
「流れる」というのでは決してないけど読みやすく、硬派で確かな感じのする文体です。
家族についての短編が4つ入っているのですが、その家族の面々を描く作者の目と距離感が絶妙です。家族を構成する父親、母親、弟。彼等がどんなルールにつき動かされて生を営んでいるかということを筆者はまず捉えた上で彼等と対していくのですが、それが冷静でいて決して冷たくはなく、あるがままに受け入れているようで、そうでもなく、やはりどこか第三者的で…といった具合に絶妙なのです。ラスト一編、ますます老いる父親を描くところは凄みさえあります。
長年、個性的すぎる親に頭を抑えられてきたと思っている方や、自分の親の老いをみて何だか寂しくなり、親の老いを受け入れがたく思っている方、そろそろ親の面倒をみなくちゃな…と思いはじめた方や親の介護をはじめた方などが読むとかなりぐっとくると思います。
百
阿佐田哲也のペンネームによる麻雀小説はあまりにも有名だが、筆者の人生観、家族愛を堪能するならばこの短編集は最高の一冊だ。軍人くずれの厳格な父親と戦後を生き抜くためにアウトローな人生を選んだ主人公のこころのやりとりには、すっかりひきこまれて一気に読み終えてしまった。
色川武大 [ちくま日本文学030]
色川 武大 筑摩書房 筑摩書房
あちゃらかぱいッ (河出文庫)
色川 武大 河出書房新社 河出書房新社
狂人日記 (講談社文芸文庫)
色川 武大 講談社 講談社
狂気の人
佳人薄命、とはまことによく言ったもの。
このことば、容姿の美しさに限らず、魂の美しさについてもまた然り。
eureka!
ある種の向こう側を知ってしまった者は、その知の代償として自らの命を差し出さねば
ならない。神を相手に己を賭した、あまりに過酷な取り引き。それでもなお、その知の憧憬に
憑かれた者は嬉々として命を差し出す。
燃え尽きることを希う、あまりに儚い自殺志願者、それこそが芸術家の芸術家たる所以、
狂人の狂人たる所以。
享年61、薄命と呼ぶにはあまりに長い生涯だ。
とはいえ、色川がこの小説と命を引き換えにした、と語ったとして、誰がその説得力を疑う
ことがあろうか。
『狂人日記』といえばまずはゴーゴリ、しかし、色川のそれは完成度、深みにおいてかの
ウクライナの巨星すら凌駕する。
とある飾職人の、内攻をめぐる壮絶な記録。寄り添う女がいる。拭えぬ過去の記憶がある。
すべてが辛い。どこか硬質な文体、突き破れぬ薄皮一枚が孤独また孤独の反復を招き、狂気に
至り、最後は死へと向かう。
ラストシーン、幻視の中、幻聴の中、世界を遠のく姿、己を遠のく姿は迫真。
日本文学、否、世界文学の金字塔。
色川武大が命を削って書き上げた「名作」
89年4月に亡くなった色川武大(阿佐田哲也)の遺作ともいえる作品。《阿佐田哲也》の代表作はもちろん麻雀放浪紀だが、《色川武大》の代表作は「離婚」や「怪しい来客簿」ではなく、この狂人日記だと思っている。
色川・阿佐田どちらの名義にしろ、彼の作品には自身の人生観あるいは人間観が色濃く投影されたものが多いが、その全てが投入されたのがこの作品ではなかろうか。
正気と狂気の狭間を行き来する男の手記(告白)の形がとられているが、文章や行間から著者が筆を握り締めながら原稿用紙を睨みつけている様子が浮かんでくるようである。加えて著者の体臭も強烈に感じられてくる。しかし、作品全体を覆うトーンは透明であり毒々しいものではない。叙情的ですらある。
色川武大が命を削って書き上げた、名作の名に相応しい作品だ。
阿佐田哲也から色川武大へ
私はもともと麻雀が好きで、そこから阿佐田哲也のファンになった者です。
彼のことをより深く知りたいと思い、この作品を読みました。
ある50代の男が精神病院に入院するところからこの物語は始まります。
幻聴、幻覚、悪夢にさいなまれる男の描写がえんえんと続きます。
これはナルコレプシーの症状なのですが、この病気のことをただの「眠り病」ぐらいにしか認識していなかった自分には衝撃的でした。
この病は彼特有のものであり、ほかの患者はもちろんのこと主治医とも苦しみを共有することができないし、理解もされません。
このことから彼は深い孤独におちいるのですが、そこから救い出すかのように同じ入院患者の女「圭子」が現れます。
ここまでが前半部で、主に彼の病の特異さを描いています。
この出会いから物語は急転回し、
二人で病院を出ての同棲生活が描かれることになります。
その中で男は人と関わるということ、また人を心から愛するとはどういうことなのか、ということを思索し、懊悩します。
人を愛すれば愛するほど、その不可能さにぶつかってしまい、さらに孤独が深まってしまうというパラドックス。
そんなヨーロッパ映画のようなテーマが後半部では描かれています。
本書を読み終えて阿佐田名義と色川名義の作品のあまりの違いに驚きましたが、それと同時に両者の共通項も見えた気がしました。
『麻雀放浪記』でアウトローの世界を生き抜いた「坊や哲」も本作の中年男も、絶対的に「ひとり」だということ。
人間とは究極的にはたった「ひとり」であり、他との一体感などありえないまやかしであるということ。
そんなひとつの人間観を阿佐田=色川氏は終始一貫して語りつづけた小説家であったと思います。
人と繋がりたいあまりに…
久しぶりに読み直してみて、感動を新たにしました。太宰治の『人間失格』にも通じる感動といったら大げさに過ぎるでしょうか。
人と繋がりたいと思う余りに、狂っていく、人に疎まれていく。切ないです。
私の手元には、函入の単行本もあるのですが、装丁に使われている絵の寂しさにも心打たれます。文庫版の後書きにもあるように、この絵が、十数年もの間、幻覚・幻聴に悩まされ、入院を余儀なくされた方が描いた作品だとの説明が、単行本にもあります。そして、この『狂人日記』は、色川武大さんの中にあった構想が、彼の絵画作品に出会って小説の形になることができたということです。
ただ、そういう構想から完成へのドラマとは別に、描写の迫力、場面の説得力、そういった小説自身が持つ魅力にも間違いなく圧倒され続ける作品だと思います。
人間が生きていく重い悲しみのようなものが満ちていました。
できたらぜひ、単行本の表紙や裏表紙の装丁も見てほしいと思いますが、文庫として、多くの人が手に取れるのは、とても嬉しいことに思います。
幻覚
自分は幻覚を体験したことはないけれど、「狂人」になってしまった本人(色川さん)にしか苦しみはわからないだろう。
わかろうとしても、彼自身の私小説的で、圧倒的な描写に、おそれおののきつつ、読み進めるばかりでした。
ただ作品全体が病に覆われているかというとそうでもなく、時間の流れがおだやかな場面もあり、それ故その後の彼の苦しみが増幅されるのかもしれません。
遠景・雀・復活 色川武大短篇集 (講談社文芸文庫)
色川 武大 講談社 講談社
喰いたい放題 (光文社文庫)
色川 武大 光文社 光文社
死ぬまで食べる
1984年に潮出版社から出た単行本の文庫化。
食べ物について書き散らした21編。気楽な調子で書かれているのだが、食に関するわがままや細かいこだわりが伝わってきて、楽しめる一冊だった。食へのこだわりは、うっかりすると嫌らしさとか卑しさが出てしまうものだが、きわどいところでバランスを保っている。
それにしても、身体を壊しても食べ続ける執念は凄い。結局、この文庫版の出る前年に急逝してしまうわけだが。それでも、食やギャンブルを心ゆくまで楽しめた人生だったろうと思う。
普通の食べ物をさりげない名文章で
豆、玉子、フライ、蕎麦、カレー、大食、酒、ダイエットなど
普通の場所で食べた普通の食べ物と食べ物にまつわる回想だ。
普通の話しを普通に話されても共感は呼ばないが、普通に見え
て普通でない、さりげない名文が本書を読ませるのだ。
色川武大を名文章家に挙げる人は寡聞にして知らないが、私は
彼を現代名文章家中に加えることにいささかの戸惑いもない。
「ソバはウドン粉に限る」。そう、その通り!!
レストランや美味しい食べ物を紹介するというよりは、食べ物を巡る身の周りの出来事や想い出が書かれたエッセイである。著者もあとがきで触れているのだが、食欲は旺盛で何でも“ガツガツ”食べる。
医者から“いいのは胃腸だけ”と言われた著者は、ある日ジャガイモコロッケが食べたくなる。でも脂肪が良くないと言われているので、コロモのないコロッケを作って食べる。要するに卵やパン粉をつける前のタネである。その姿を想像するとなんともいえないおかしいのだが、著者の数々の病気を思うとチョット哀しい。彼がこだわるのは、ご飯、豆等の日常の食べ物なのだがそれが如何にも彼らしい。著者(色川・阿佐田)の作品の多くを読んできた私もそうでなきゃと思ったりもする。
私はソバの美味しさを記した「ソバはウドン粉に限る」が読みたくて長年この作品を探していた(マーケットプレイスで買おうと思えば買えたのだが…)のだが、期待を裏切らない本当に著者らしい作品であった。そう、ソバはウドン粉に限るのである。
この作品はエッセイであるはずなのだが、「大物喰らい」のように著者(この場合あくまで色川武大であるが)が書く私小説に仕上がっているかのような作品もあり、色川武大の世界がいっぱい詰まったエッセイである。ファンならずとも読んで損はない。
私の旧約聖書 (中公文庫)
色川 武大 中央公論社 中央公論社
胸を打ちました
16歳で行き場を失って、無頼といわれる生涯を送った著者が、
何故若い時から旧約に没頭したか知りたくて読みました。
氏の生き生きとした旧約に対する感慨は私の胸を打ちました。
当書に邂逅した事に今は感謝しています。素直に。
神を必要とする時点。神をそれほど必要としない時点。
昔読んで印象に残っていたので読み返してみたが、やはりなみなみならぬ洞察力を持った本だと思った。
著者が旧約聖書に、
神を必要とする時点。神をそれほど必要としない時点。(p114)
という両者の反復性を見出している部分だけでもスピノザあたりの聖書読解につながるものを感じる。
『麻雀放浪記』でフィクションとして展開される賭博関連の洞察、戦後の焼け跡風景や著者の絶壁頭へのコンプレックスなども見事に旧約聖書の読みとつながっている。
軽い読み物だと思って読むうちに、戦後文学の最良の部分に気づかされ触れることになる。
文庫オリジナルで、カバーもいい。おすすめ。
聖書との関わり方
聖書の話なのにまえがきの出だしが、「まずお金のことをやりましょうか」だ。さすが。そこからしばらく博打の話で、前哨戦の大切さ、一点先取の重要、運気、プロを舐めるなと来て、なるほどなーと盛り上がる。
「旧約聖書を読んで、はじめて、(神ではなく)人間の叡知ものに底知れぬ怖れを感じ」、「この体験がなければ、...文字を記す職業にたずさわっていなかったかと思います。」と言う。信仰はないというのに著者はどういう関わり方なのだろうと読み進めていくと、相応の見方が判って興味深かった。西欧やロシアの作家には聖書がバックにあるというのはよく言われるので、一度は読まないととは思っていてもなかなか実現できず、今までほとんど旧約も新約も読んだ事がない。旧約聖書とのキャッチボールと著者が言うように、色川武大や阿佐田哲也が好きな人は内容に共感できるのではないか。天国なんて私もあんまり興味ない。
旧約聖書も後ろのほうはだれるのか、旧約の話は途中までです。本書も前半のほうが面白い。
ひたすら聖書
タイトルからもわかるとおり、ギャンブル的要素は全く記述されていません(当たり前といわれれば当たり前ですが)。
ただ彼の作品(阿佐田哲也名義も含めて)の背景までも知っておきたい、という人ならば、読んでみる価値はあるのではないでしょうか。
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