敦煌 (新潮文庫)
井上 靖 新潮社 新潮社
連想ゲーム、京大といえば井上靖
井上先生は数多くの名著を残された。私が作家に「先生」と条件反射でつけてしまうのは、この方だけである。中でもこの「敦煌」は、ほとんど資料ゼロの地点から出発して書かれたもので、文章も独特の透明感が十分発揮されていて、どなたかが書いておられるように最高傑作である。
私は司馬遼太郎作品もかなり好きであるが、残念ながら井上先生と比べるには器が小さい。たしか司馬氏と一緒に西域を訪問されているが、そのときの感想が「これ以上来たらバチが当たる」。なんと謙虚なことだろう。
余談だが、私が京都大学出身者として初めて意識したのは、この方だった。生きていらしたら、現在もてはやされている京大出身者の著作をどうご覧になるだろう。きっと大笑いして読まれるだろうと思う。
文字と存在
敦煌から約25km,鳴沙山の斜面に莫高窟はある。
1900年,長く埋もれてきたこの遺跡から夥しい数の文献が発見された。
やがて本格的な研究が進んでゆくに従い、それが世紀の大発見であることが判明してゆく。
貴重な経典の数々が含まれていたことはもとより、それを記す文字にも多彩なものが含まれていた。
西夏文字もその中の一つだった。
本作は11世紀初頭の西域を舞台として描かれた歴史小説。
史上の人物である李元昊や曹兄弟などは脇役であり、趙行徳・朱王礼・尉遅光など架空の人物が縦横に動かされ、
それぞれの個性が絡みあってダイナミックな物語が展開してゆく。
大きなモチーフに「文字」があると感じた。文字は人間の歴史を語り、後世に伝えて行くものである。
西域には雑多な民族が勃興しては滅んで行ったが、文字による記録を残したのはそのうちの僅かに過ぎない。
それを残さなかった者たちは何も語らず、ただ遺跡と人々の記憶が僅かに彼らを呼び返すのみである。
新興の西夏は「西夏文字」を生み出した。行徳はその文字を学ぶために西域を目指した。
朱王礼は自らの戦いの歴史を刻むために、行徳に碑を建てることを命じた。
彼らはそれぞれ後世まで自らの生を「文字」で伝えたかったに違いない。
一方ウイグルの女は、何も語ることなく城壁から身を投げ消えてゆく。
彼女の面影はただ行徳や王礼の記憶の中にあり、それぞれの中で別々の姿を残してゆく。
行徳は仏教に傾倒し、王礼は深く復讐の思いを秘める。
彼女の本当の思いがどこにあったのか、それは謎のままに。
記録と記憶の狭間で、人々は存在の本質を問う。
それは一人ウイグルの女に言えることだけでなく、歴史の営みそのものにも当てはまる。
多くの歴史が交錯した西域は、それを最も雄弁に物語る舞台と言っていい。
時代と舞台、そして人物。この敦煌は、それらが融合して織り成す壮大な詩である。
騙されました
私は敦煌については古くてでっかい遺跡のある町という漠然としたイメージしかなく、とにかく知識のない状態でこの小説を読みはじめました。あっという間に物語に引き込まれました。なんというか流れるように語られ、まるで透明人間としてその歴史の瞬間を今見ているような錯覚に陥ります。登場人物の特に主人公のあの静かでしかし激しく熱い情熱はいったい何なんだろう。自分はいつ死んでも構わないと思いながら最後にできることを冷静に判断してそれに向けて動く行動力。今こう書きながら思い出してもぐっと来ます。そして私の衝撃は、敦煌の存在は真実でもこの物語がまったくの創作であるということです。あとがきで創作だと知った後も、いやこれはかなり本当だったかもと疑ってしまうほど、それほど夢中に物語にのめりこんでしまいました。事実膨大な量の仏典が敦煌遺跡に守り続けられたということに大きなロマンがあるのだと井上靖は私に教えてくれました。この本に出会えてよかった!!みんなもそう思うはずです。私がこんなにお勧めしなくてもかなりの人がそれに気付いていたかと思うと少し反省です。
西域での興亡を通して
この小説は主人公趙行徳、隊長の朱王礼、友人(?)尉遅光による物語になっていて、史実に基づいて書かれた歴史小説の範疇に入るものです。かなり前に書かれたものですが、森鴎外や幸田露伴のような古めかしいスタイルの文ではないため読みやすいです。正直飲み会で話して盛り上がる起承転結があるわけではないですが、西域の美しさ、そこで生きる人々の内面からあふれる魅力、また時に悲しいことがあろうと常に今を生きる行徳らによって作品はとても荘厳になされています。司馬遼太郎が嫌いな人はこういったものはどうですか?
文章の精緻さ
主人公は、一般的な小説にあるような
いわゆる主人公らしさがない人物です。
しかし、ぐんぐん惹きつけられます。
文章の完成度が高いのです。
磨き上げられた文章がフィクションであることを
感じさせません。
一度、読んでみたいと思っていましたが
読んでみてよかったです。
おろしや国酔夢譚 (文春文庫 い 2-1)
井上 靖 文藝春秋 文藝春秋
江戸時代の漂流記は面白い
本書の様な江戸時代の漂流記は実に面白い。
当時の厳しい鎖国社会を背景にして漂流者達の異文化との遭遇が驚きに満ちたものであろう事は想像に難くないし、
極寒の地で地球半周の距離を往復するという行程の中で漂流者達が次々と脱落していくのも壮絶である。
それにしても私が最も関心したのは、当時のロシアの東方進出にかける凄まじいエネルギー。
その間日本はのんびり眠っていたと言って良い状態であり、
この時期に樺太、千島を真剣に開発しておいたらその後はどうなっていただろうか?
余談ながら、江戸時代の漂流ものとしては、吉村昭著「漂流」もお薦めです。
人間の絶対的な孤独
大黒屋光太夫を主役に据えた時代小説。
彼と部下16名の漂流は無論史実であるものの、本書は記録小説ではなく、
井上靖作品らしいテーマをもって描かれた、人間ドラマと言っていい。
井上作品には、強烈な「生きるよすが」を持っている人物が数多く登場するが、
本作における光太夫もまさにそういった人物として描かれている。
その「よすが」は言うまでもなく「生きて故国の土を踏む」という一点。
酷寒の大地の上で、彼は決然とその日を信じて、前を向いて生きてゆく。
しかし本作における主人公は光太夫だけでなく、おそらく漂流民16人全員だろう。
帰国する者、ロシアに残る者、そして死んでいった仲間たち。
はじめ想いを一つにしていたはずの彼らも、いずれ運命はそれぞれの方向を向き、
別々の道へ向かって行かざるを得ない。
”人間はそれぞれ独立した存在であり、心も体も、絶対的に孤独なものなのだ”
交錯する彼らの運命から、井上氏はそれを伝えたかったに違いない。
そして10数年の流浪の末に光太夫がたどり着いた場所で見たもの。
人の心の置き場とは一体どこにあるのか?
すべてが一酔の夢であったかのような彼の人生が、読者の胸に余韻を広げる。
人間性への希望と虚無感と
天明2年(1782年)12月、伊勢の白子の浦を江戸へ向かって出た貨物船神昌丸は、嵐にあって漂流し、八ヶ月に渡って海上を漂ったのち、アリューシャン列島に漂着した。船長大黒屋光太夫以下16名の船員たちは、日本に戻るべく必死の努力を重ねるが、年月は過ぎ、ロシアの厳しい冬に一人ひとりと倒れていく・・・。数奇な運命をたどった日本人の実話に基づく冒険譚。
人の感情は根っこの部分で共通すればこそ、女帝エカチェリーナが光太夫の数奇な運命を聞き「ベドニャシカ(可哀相なこと)」と言い、読者もまた光太夫に共感できるのではないでしょうか? 100%善意から出たのではないにしても、漂流民の身柄を守り、日本に送り還す労を取るロシアの人びとの暖かさは、太古から脈々と人間性、というものが生きつづけてきた証しではないか、そんな希望を持ちました。
一方で、帰国する、という目標に彼らを駆りたてたものは何だったのか? 残ったものと、帰ったものと、それぞれの人生の意味は何だったのだろう、と生の虚無感にとらわれます。結局、与えられた条件の中で、最大限自分のやりたいように生を組み立てる、それ以上でもそれ以下でもないのではないか、そんなことを考えさせられました。
惜しむらくは当時の日本のシステムや人びとの生活に現代的な視点から疑義をはさんでいること。西欧中心主義の影が見え隠れします。江戸の人も与えられた条件をもとに考えて結論を導き出しているのにすぎないわけで、そのプロセスはロシアの人と変わるところはない。当時の彼らのプライオリティは何だったのか。幕府の考えかた、やりかたをそうした面から評価せずに、一方的に批判するにとどまっているのがやや残念でした。
人がいなければ歴史は存在しない、そんな当たり前のことを再認識させてくれる本。堅苦しいことを抜きにしても、単なる冒険譚として非常に面白いです。
鎖国時代の命がけの交際交流と国家を問いかける書
大黒屋光太夫という、歴史的には形作られていない人物を、井上靖さんは自らの創造で、ひとつの歴史を作ってしまったと言う感じの本です。
僕は、大学時代にこの本を読みましたが、緒方拳主演の映画を見たことが、読むきっかけとなりました。
時代は、江戸時代末期。鎖国時代の日本に、北からロシアの脅威が襲ってくるというモチーフでした。
井上靖さんが執筆された当時は、東西冷戦の中で、北方領土をめぐる問題もあり、当時のソビエト連邦が脅威であり、日本にとっての仮想敵国。この本が歴史を現実に引き戻した感じでした。
大黒屋光太夫が、乗組員とともにロシアに連行され、帝都ペテロブルグへ。苦労の末、帰国したものの日本では罪人扱いされるが、ロシア艦隊が来日すると、彼は両国の橋渡しとなっていく。
そこには、国家とは何かを問いかけながら、国際交流の魁を痛感しました。
江戸時代の日本人のロシア大冒険記
数ヶ月の漂流。その後アリューシャン列島に漂着→カムチャッカ→ヤクーツク
→イルクーツク…(順番合ってるかな?)
極寒の地での異国の人との越冬。言葉も習慣も食べ物も気候も何もかもが
違う世界。次々に死んでいく仲間達。果たして自分達は国に帰れるのか?
というか、生き続けられるのか?
ドキドキしっぱなしですよ。この本を読んでいる時は。想像を超えた世界。
しかも、実在した人物だなんて。はからずも彼らは十数年にも及ぶ大放浪
をすることになったわけですが、これってどうなんでしょ。
考えようによっちゃものすごく刺激的で楽しかったのではないでしょうか。
ま、当人達はそんな余裕などなかったのでしょうが。見知らぬ地で常に
極寒による死と向き合わざるを得ない毎日。先進的な欧米文化を目の当たり
にした江戸時代の外国人など見た事もない彼らは何を思ったんだろう?
江戸時代の日本人のロシア大冒険記。ワクワクしますよ!
天平の甍 (新潮文庫)
井上 靖 新潮社 新潮社
伝教、心
1 飛鳥の地から平城京(奈良市)へ、710年に、遷都されました。
2 次は、鑑真(688年 江蘇省 生)と 妙楽(711年 江蘇省 生)との関係
について、勉強してみたい(報恩抄)。雪山。
「依法不依人」 憲法。
まさに名著
文学史に残る傑作。解説にもあるが、海難さえなければ空海以前に密教体系が日本にもたらされたかもしれないという設定は、渋い。司馬の『空海の風景』を読んでいるとなおいい。
無常感
中学を卒業し 高校に入学する前の春休みに本書を読んだ。当時とにかく気に入って一時は全部 筆写しようかとさえ思ったことを覚えている。
今となってみると なんでそんなに耽読したのか不思議だ。
おそらく これから高校という新しい環境に入っていく自分が 遣唐使として中国に向かった主人公たちと どこか自分の中で重なるものがあったからではないかと思う。今から考えてみると 高校は そんなに緊張して入学するところでもなかったわけだが 12歳程度の子供にとっては そんな風に緊張していたのかもしれない。
希望を持って中国へ渡った若者たちは それぞれの目標を達成し それぞれの挫折を味わっていく。
鑑真という人がわざわざ日本という 異国にして蛮国に来て そうして没していく。
そうした描写には どこか無常感も漂う。
高校前の幾分ナーバスな僕にとって そんな無常感が 心地よかったのかもしれない。
文豪が描き出す壮大な歴史ロマン
情報がネットワークを通じて自在に行き来する現代からは想像も出来ないことだが、1300年の遥かなる昔に生きた人びとにとって、何かを学び、或いは伝えることは、人生の全てを費やし、命がけで成し遂げる価値のある、文字通り“一代の事業”だったのだ。
東の果ての島国に仏法を伝えるため、不帰の覚悟で海を渡った「鑑真」。
そして、鑑真招来のための命を賭けた「栄叡」。
人生の全てを日本に送るための経典の書写に捧げた「業行」。
そんな彼らの意思を、運命のように受け継がざるを得なかった(主人公)「普照」。
彼らの姿を、簡潔に、されど情感豊かな描き出す作者の文章は、相変わらず見事の一言。浅田次郎氏が「歴史に敬意を払いつつ、見てきたような大嘘をつく」というように評していたが、言いえて妙である。そんな文豪の筆致を存分に味わえる傑作である。
時代背景に対する説明が足りない
天平五年(西暦733年)の第九次遣唐使で唐にわたった僧、栄叡、普照その他の僧侶たち。在唐二十年、幾多の失敗を経て、唐の高僧鑑真を招聘して故国の土を踏んだのはただひとり普照のみだった……。
高僧とはいえ、坊さんが一人日本に渡ってきたことがなぜそれほどに大事件なのか? 仏教というものの当時における存在感、国策として国を挙げて僧侶をわざわざ大陸まで送っていたことの背景、中国側がなぜ鑑真を送り出すことに難色を示していたのか? そういうことに対する理解を基礎知識として持った上で読め、ということなのかもしれませんが、そうした背景に対する説明を抜きにして物語が構築されていることに物足りなさを感じました。主人公の栄叡、普照を突き動かしているものの正体に手が届かない感じがします。
もちろん、細かな心理描写、当時の海を渡る苦労、栄叡、普照の真摯さ、鑑真の人柄、そうしたものは、井上靖の小説ならではの、その場にいて、実際に見ているかのように感じられる写実性の高さです。
北の海〈上〉 (新潮文庫)
井上 靖 新潮社 新潮社
爽やかに、おおらかに、ユーモラスに、輝かしい時が…
旧制中学を卒業してぶらぶらしていた洪作はふとしたきっかけで四高の柔道に惹かれ、金沢へ行く。そしてまだ入学もしていない四高柔道部の個性的な面面と共に道場「無声堂」で汗を流し、金沢の町や海で遊ぶ。小説の筋を言えば基本的にそれだけである。
奇想天外な事件も、胸を焦がす大恋愛も、文学青年じみた退廃も一切無し。ただひたすら、爽やかに、おおらかに、ユーモラスに、輝かしい時が流れて行く。よく井上靖の小説に「悪人」は登場しないと言われるがこの作品でも然り、乱暴者や厳格な偏屈者は出て来るけれど、皆どこか憎めない。実在していたら会いたくなるような連中ばかりである。
もし、こんな青春の時がいつまでも続いたら……、洪作が両親の住む台北行きの船に乗り込むラスト・シーンに来ると、何度読み返してもそんな淡い憧憬と寂しさを覚えてしまうのは私だけであろうか。自伝的要素の強い作品だけに、井上靖自身もきっと、この作品の中にそういった青春への鎮魂歌としての感慨をこめていたに違いない。
個人的に「北の海」は「三四郎」と並んで大好きな青春小説で、日本文学には稀な清潔さを持った作品として非常に貴重な存在だと思う。「あすなろ物語」の悲哀に満ちた世界に惹かれた人にも、是非この小説を読んで頂きたい。
淡きこと雲の如し
寮生として柔道漬けの日々を送っていた高校二年のとき初めて読んで以来、何度読み返した事だろう。
一人の少年の成長記であるが、物語は主人公と同化したが如く淡々と進み、文章にさえ何の仕掛けもない。
思春期という、エネルギーと自我がアンバランスな人生の一時期を迎える少年達にとって、ある種の指標になるはずである。
また、元少年だった人にとっては、胸がしめつけられるような懐かしさ、恥ずかしさ、儚さを思い起こさせる起爆剤になると思う。
それまでは何も考えず、ただ夢中で読み返していたが、ふと、この小説の素晴らしさを他人に説明できない自分に気付き愕然とした。
元来、国文科に在籍しながら、作品を分解して鑑賞する事に意義を見出せず学生の本分をまっとうしなかったワシが、何を今更だが、「北の海」を説明できないという一点に於いて講義と演習に身を入れなかった事を悔いている。
素晴らしきかな青春時代
中学校を卒業した洪作。浪人という肩身の狭い境遇をおくびともせず
柔道に打ち込みます。そんな洪作の前に現れた一人の高校生、蓮見。彼の柔道に心底惹かれ洪作は蓮見の学ぶ金沢へと旅立ちます。
この小説はしろばんば、夏草冬波に続く3部作目で井上靖氏の代表作。
私は3作品の中ではこの物語が一押しです。
読み進む内に揺れ動く洪作の気持ちが若かりし頃の自分とフィードバックされていき、なんとも表現しがたい甘ーい感触を思い出します。
よく晴れた休日の午後にお薦め。
愛 (角川文庫)
井上 靖 角川グループパブリッシング 角川グループパブリッシング
うーん(^_^.)
マイナーだけど名作と謳われる本作を初めて読みましたが
いかんせん古典的で…でも超古典でもなく
妙に現実的で…でも現実ばなれしてて..
特に「結婚記念日」は少し似た内容で、
藤沢周平の時代物を先に読んでいたのであれ?って感じでしたが。
40代の私でも、私の母親世代の時代の話かなぁ…!?
なんだか我が母をつい思い出してしまいました。
高校生の娘が、いつだかこの本の時代で別のドラマを見たとき、
「私にとっては時代劇の部類」といってたのを思い出しました。
2作目の舞台になる竜安寺の石庭も
井上先生が思い描かれている石庭とは違っているので
時代の流れを妙に感じます。
描かれている愛についても世代によって想いがちがうでしょうね。
古くもわかり易い文章なのと短編なのでイッキに読めるから
それぞれの世代感で読みつがれるといいですね。
あすなろ物語 (新潮文庫)
井上 靖 新潮社 新潮社
老年の今、三度目の読書でようやく「読了」ができた
ふとしたきっかけで、昔、少年の頃と青年の頃と2回読んでいた本書をまた読み直した。そして、気がついたことがあった。文庫本の宣伝文には自伝的小説としばしば書かれるが、それは、この本の特徴を誤解させている。井上さんは、明日は檜になろうという「人間全てあすなろ」仮説をもってこの本を書いたのである。そのことの意味を今回ようやく読みとったのである。
この本は六つの章からなるのだが、少年の頃読むと、少年鮎太を描く二章までが面白くあとは流してしまう。青年の頃読むと、最後まで一応、筋を追えるが、中高年時代を描く五章、六章あたりへの関心は薄れがちである。それに、各章に登場する個性的な女性を追って読むことも出来る。
しかし、今回読んみて、肝心なところが最終章にあることに気がついた。あすなろ仮説は、ここにおいて収束するのである。すなわち、終章の冒頭、こう書かれている:「明日は何ものかになろうというあすなろたちが、日本の都市という都市から全く姿を消してしまったのは、B29の爆撃が漸く熾烈を極め出した終戦の年の冬頃からである。日本人の誰もがもう明日と言う日を信じなくなっていた」と。終戦間際になると、戦争を遂行する日本という国の不条理を誰もが無意識のうちにでも感じていて、希望というエネルギー源を無駄に燃やし尽くしてしまい、夢をもてなくなっていたのである。
また、同じく終章で戦争が終った末尾近くでは次のごとくである:「気付いてみると、あすなろは今や、オシゲと並んで歩いて行く彼の周囲にもいっぱい氾濫していた。・・・人々は誰も彼も、自分をのし上がらせるために血みどろになっていた。僅か十ヵ月足らずの間に、すっかり世の中は変っていた」と。誰も彼も、多様な夢を持ち、新しい生活を作り出せることを喜んでいた。中には、抜け駆けして一攫千金をねらう輩もいたのだけれど、それに止まらず、檜になることが可能になったのであった。
終戦を挟んだこの大きなギャップをあすなろに掛けて描いて見せたこの本は、実は、極めて現代的なのかも知れない。あすなろが駆逐されようとする現代の閉塞を打ち破って、あすなろを氾濫させる必要がある。あの戦争直後の、夢と希望に満ちた時代を、現代風によみがえらせること、それがいかに重要かを、私は「あすなろ物語」を最後までしっかり読んで掴んだのである。六十歳の半ばにして、私はこの本をようやく読了した。
「あすなろ」ってなんだろう?
「あすなろ」ってなんだろう?
と、ずっと思ってました、恥ずかしながら。
「あすなろ白書」とか「あすなろ日記」とか有るじゃないですか。
なんとなーく、「切ない」とか「実らない」とかかな〜とか、勝手に想像していました。
答え:翌檜とかいて「あすなろ」という木の名前。明日は檜になろう檜になろうと思っているが、一生それは無理な話。
その若者は「あすなろ」なのか「本物なのか」?
本書は、繰り返し使われる「あすなろ」の原点かな?
冴えわたる描写
たしか小説家はたった一文を書きたいがために、物語を考えるといいます。僕はこの作家もそういう動機で小説を書いているのではと、勝手に考えます。たとえばこの中では第一作目、深い深い雪の中での加島と冴子の心中の場面。または星の植民地での月見の場面。これらはまるで剃刀の刃のように冴え渡り、読者に強烈なイメージを与えてくれる。そういえば「氷壁」の小坂の荼毘の場面もそうです。井上靖とはそういう作家だと思う。われわれの想像力を目いっぱいに刺激し、まるで映画を観たような、いや、まるで実体験であったかのような読後感がある。それぞれの作品も適度な長さで読み易いが、ただ残念なことは、生活の臭いがすこし希薄だったように感じます。戦争もそうですし、妻帯したあとの家庭の臭いが感じませんでした。
克己心
私はこの本の中では、第一章の「深い深い雪の中で」が一番好きである。
その中で主人公の少年に大学生が語った克己心に関する説明が強く印象に残っている。自分も克己心の強い勉強ができる人になろうと思った。
雑踏の中にある孤独と高揚
井上靖氏の自伝的小説であり「しろばんば」以後、という見方もできる。
ただし完全な自伝ではなく、虚構を交えている。
6部構成の物語は、主人公・鮎太の少年時代から成人時代までを年代順に追ってゆく手法。
そこに太平洋戦争終戦までの時代のうねりを重ね合わせ、それぞれの時期に出会った人々の姿を、
鮎太の目から印象的に映し出している。
檜になりたくても、決してなれない翌檜の木を比喩として、懸命な生を仮託する。
多くの人との交わりを通じ、雑踏の中にある孤独と、高揚を同時に描き出している。
最終章における、廃墟から立ち上がろうとする逞しい人々の姿の描写には、
井上靖氏の中にある人間愛の形を見るような気がする。
人はそれぞれ孤独であり、それゆえ時に狂おしいほど人を求め、奇妙に交錯しながら明日を探す。
井上靖作品の中に共通して見られるテーマだと思うが、あすなろの木の姿によって、それが象徴的に描かれている。
蒼き狼 (新潮文庫)
井上 靖 新潮社 新潮社
あとからきます
私はもともと歴史に興味がなっかたのですが、敦煌、天平の甍を続けて読み大変満足して次に取ったのが蒼き狼でした。前の2冊に比べると大変男臭く、何より戦う男の物語です。モンゴル史にも疎かったので、なるほどこういう流れかと歴史の勉強のごとく本を読み進めました。読み終わったあとは、悪くはないけど前の2冊ほどのうっとりした感じがなっかたなと思っていたのですが、しばらくすると戦い続けた男の人生ってどうだったんだろうとじわじわ色んな疑問や、広いモンゴルの大地に夢を見続けた人生の凄さとか考えはじめました。一旦終わった物語が今も続いているような感覚です。これが歴史の面白さなのかなと少しずつ分かってきました。若いときは井上靖の小説ってあまりにも優等生的な感じがして敬遠してきましたが、海外文学にずっとはまっていた私を久々に日本文学に導いてくれたのが井上靖です。余韻の残る文章がとてもすばらしいと思います。誰かの人生に興味をもつことが歴史小説の原点だと知ることができました。
井上西域ものの中期
本作をめぐる大岡昇平との論争、いわゆる「蒼き狼論争」以後、井上の歴史小説は史実を忠実になぞるスタイルに変化する。本作はそのファンタジー性が面白いのだけれど、チンギスハンの征服事業の根源を、単なる伝承にのみ拠るのは、確かに動機づけとして弱い。
ワクワクしながら一気に読めます
この本を読んで、テムジンこと、ヂンギスカンの力強さを感じました。
チンギスカンはモンゴルを統一しても尚、ヨーロッパやインドへの遠征を企てます。
チンギスカンはまさに「狼」という言葉がぴったりだと思いました。このパワーはどこから来るのだろうか。きっと、自分の出生に対する疑惑がある故に、自分の血に対する疑惑を自身の中から打ち消す為、蒼き狼として戦い続けなくてはいかなかったのだと思います。
とてつもない征服欲の強さと、戦闘を繰り返し、兄弟や息子達家族と団結して勢力を伸ばしていく様にワクワクしながら読みました。
繰り返し読むことでより内容の理解が深まります。そして、この本はその度に勇気を与えてくれる本だと思います。仕事等で上手くいっていない時等に、またもう一度読み返したいと思います。
テムジンという漢
反町隆史の主演の同名映画の原作小説。
歴史小説には作者の主観(好み)が主人公に過大に投影されるものと、歴史的事実をベースに淡々と主人公像を描き出していく手法とあるが、井上靖は後者の作家だと思う。
歴史小説にキャラ立ちは必要ないと自分は感じている。
作家の脚色を加えすぎてフィクションになってしまっては歴史小説の面白みがない。ある程度史実にそって、残された記録から人物像を掘り下げていく作業を追っていくほうが自分は面白い。
この「蒼き狼」はその点では自分の好みに合った小説だった。
勿論、井上靖自身の洞察によるテムジンの人物像・その飽くなき征服欲に迫るアプローチはされているが、テムジンという人物を過剰に脚色することなく淡々と描いていく様が、自身も歴史上の人物を次元の隙間からから観察しているようで楽しかった。
小説を読みなれていない人にはあまりにも淡々としすぎていて辛いかもしれないが、重厚で堅実な構成と筆致は読む価値があるといえる。
征服欲
一代でモンゴルを統一し、
その後瞬く間に領土を拡大し
カスピ海から遼東半島までを版図にした
チンギスハーンの一生が描かれています。
著者のあとがきにあるように
無尽蔵の征服欲がどこからきたのか
描こうとしています。
神と崇められた大王の孤独な姿を感じました。
夏草冬涛 (上) (新潮文庫)
井上 靖 新潮社 新潮社
作家、井上靖の原点がわかる作品
「しろばんば」「夏草冬濤」「北の海」と井上靖の自伝的小説3部作品の2作目。
「しろばんば」は郷土への愛着。
「夏草冬濤」は思春期の思い出。文学との出会い。
「北の海」は青春時代の過ごし方の回顧。
全部すばらしい作品ですが、私は夏草冬濤が一番好きです。
主人公の耕作も良いキャラクターですが、藤尾が一番好きなキャラクターです。
旭川の井上靖記念館に行くと沼津中学時代の写真が展示されていますが。
藤尾(本名は藤井さん)が、夏草冬濤に出てくる、そのままで嬉しくなりました。
現代文学の最高傑作
沼津中に進学した洪作の楽しき学校生活。4年生で出来た友達、藤尾、木場、金枝、餅田の4人と洪作が最後の伊豆旅行のシーンで交し合う言葉達がなんとも躍動感に溢れている。読むたびに元気づけられ、そして新しい発見がある。この小説を読んだ大人達に少年時代のあの楽しかった毎日をぜひ思い出して欲しい。
堕落していく生活
同じく井上靖の「しろばんば」に続く作品です。
成績優秀で一番で中学校へはいった浩作の生活を描いています。勉強しなく
なった浩作の生活とは?
学生になって、成績も気になるところだし、一緒に住んでいるのは今度は
伯母になり、なんだか性格の激しい親戚の姉妹たちがいたりして、主人公の
世界がひろがっていく感じがします。
独特の味のある作品だと思います。
孔子 (新潮文庫)
井上 靖 新潮社 新潮社
目からうろこの珠玉の一冊
タイトルは『孔子』ですが、これは孔子の伝記小説ではありませんので、これを読んで孔子の生涯の軌跡がわかるといった類のものではありません。あくまで論語をもとにした、作者による孔子解釈が中心になっています。
しかし、はじめてこの作品を読んだときには、目からうろこが落ちる思いがしました。どれほどつらかろうと、人間は人間の中で生きなければならず、乱世において世の人を救おうと、死ぬまで努力し続けた孔子の不屈の魂と、包み込むような大きさが伝わってきました。何の前知識もなく最初に読んだときは、これ以上のことはわからなかったのですが、孔子や論語の本をあれこれ読み漁ったあとに読み返すと、作者は孔子に対してかなり独特な解釈をしていることがわかります。天命とは何か、仁とは何か、孔子が最も愛した弟子は誰か。どんな気持ちで「吾れやんぬるかな」と言ったのか。多少孔子を過大評価しすぎなきらいはありますが、大いに納得できるものも多いです。
まあ、解釈の部分は論語を知らないと少々退屈な部分もあるので、まずは第一章だけでも十分だという気がします。第一章は、孔子の中原放浪の後半期が小説形式で語られており、人の胸に響く孔子の詞は、すべてこの中に凝縮されているのではないかと感じました。
この本は結構気に入りました
この本は弟子の一人が語るという形で書かれています。私はこの本ではじめて孔子のことについて学びました。今までは孔子=儒教のイメージしかありませんでしたが、この本を読み新たな孔子の人間的一面に触れさせて頂きました。逆に孔子のことについて知識を持ちすぎていてもまた違った面が見られるかもしれません。さすが井上靖の晩年の作だと思いました。他の方が書いておられますようにペースがのろのろとしているのは事実です。最初読んだときはそれが結構感じられましたが、2回目に読み直したときはちょうど良いものだと感じられました。何度も読み返して味の出る本です。
孔子の名言に血肉を与える傑作。
本作は、孔子に未知の弟子がいたという設定で、孔子研究会がその弟子から孔子の言葉の背景や孔子の有名な弟子(顔回等)の業績を数回にわたり聞き出す中から、孔子およびその弟子たちの思想の真髄(もちろん作者井上靖の解釈ということになりますが)を明らかにしていきます。東西南北の人であった孔子が陳蔡の野で窮したときに毅然と語った「君子、固より窮す」や「逝くものは斯くの如きか、昼夜を舎かず」などの孔子の名言の数々がその背景とともに血肉を与えられた言葉として読む人の胸に響きます。そして、孔子が人間性の点でいかに大きな人であったかということ、そしてその孔子を敬慕した弟子たちの行動の凛々しさに、感動を禁じえないでしょう。本書は、論語に馴染みがあろうとなかろうと、人間孔子の魅力に触れることのできる傑作です。
孔子の実像がここに
春秋末期の乱世に生きた孔子の人間像を、架空の弟子エンキョウの回想の形式にて綴った歴史小説。論語構築前の作業の形式がよく伝わっており、孔子の人間性をよく解き明かした小説。やや冗長な面があるが、孔子やその弟子の内実について詳しく知りたい人におすすめ。
よくもわるくも福音書の儒教版
新約聖書の福音書を読んだ人にはピンと来ると思うが、弟子が教祖の言行を語るスタイルは、新約聖書の福音書と同じだ。
「巧言令色少なし仁」といった昔耳にした論語の教えをレビューしたい人には、一応その目的は本書で達することができる。
ただ、特にこのスタイルにこだわる必然性があるとは思えない。聖書の福音書と同様にやや退屈感は否めない。
井上靖先生に敬意を表し、☆を一つ追加して、ようやく☆2つ。
猟銃・闘牛 (新潮文庫)
井上 靖 新潮社 新潮社
三杉の本当に愛していた女は?
三杉の本当に愛していた女は誰か?これを解き明かすのもこの小説の楽しみ方のひとつです。1回読んでも多分解らないでしょう。2回読むと異なった解釈が、3回読むとまた違った読み方ができる小説です。読んだ皆さんで意見を言い合ってみるのも面白いでしょう。読んで間違いの無い、複雑に構成された、男の恋愛小説(ハードボイルドかもしれない)です。
「猟銃」を読んで長い時間が経ち、その後同じ井上靖の「通夜の客」「その人の名は言えない」というほぼ同時期の恋愛小説を読んで、最近こう思います。
三杉の本当に愛していた女は「みどり」だったのではないかと。そう妻の「みどり」です。
みどりを背後から猟銃で狙うシーンがあります。三杉は引き金を引かないのですが(もちろん空砲)、みどりは後ろで三杉の構える猟銃の銃口が自分の背中を向いているのを知っていて、三杉が引き金を引いてくれることを願いました。三杉はみどりに向けてある面殺意を含んで猟銃を構えたのです。ここは彩子が本当に好きだったらおかしな行為です。
三杉は本当はみどりが好きで、みどりの心が自分のものにならない事を知って、彩子を愛人にした。彩子は、三杉がみどりを本当に好きなことを多分知っていた。
考えすぎでしょうか?
読みやすかったです
表題の一つ「猟銃」は猟銃が縁で知り合ったある男の十三年間の不倫の話。
妻・愛人・愛人の娘の3人からの手紙によって、知りえる真実。
ほの暗い女の愛情のようなものを感じました。
もう一つの表題「闘牛」は、新聞社の社運を賭けた闘牛大会の開催に
奔走する編集局長・津上の話。
熱にうかされたように闘牛開催に情熱を賭けます。
読んでいて人間の感情を生のままではなく、うまくデフォルメ、、
というよりは無駄な部分を削ぎ落としてシュッとスリムにしたような
感じの印象を受けました。
昭和25年前後に発表された作品ですがすんなり読めました。
別の世界に行けますよ!
小説「猟銃」を知ったのは大竹しのぶが朗読する番組を見た時だ。本当に彼女は素晴らしく、登場する三人の女たちを演じ分けていた。今回やっと原作を読むことができたのだが、番組では省略されていた部分を色々な気持ちを交えながら堪能した。私はもともと手紙式の小説が好きであるが(あしながおじさん、アンシリーズのアンの幸福etc・・)そういう人に特におすすめする。
今や孤独となったな男と彼をとりまいていた女たちの十三年の愛憎の日々にどっぷり浸かり、この時はせめて平凡な日常をとっとと忘れよう。
別の世界に行けますよ!
小説「猟銃」を知ったのは大竹しのぶが朗読する番組を見た時だ。本当に彼女は素晴らしく、登場する三人の女たちを演じ分けていた。今回やっと原作を読むことができたのだが、番組では省略されていた部分を色々な気持ちを交えながら堪能した。私はもともと手紙式の小説が好きであるが(あしながおじさん、アンシリーズのアンの幸福etc・・)そういう人に特におすすめする。
今や孤独となった男と彼をとりまいていた女たちの十三年の愛憎の日々にどっぷり浸かり、この時はせめて平凡な日常をとっとと忘れよう。
闘牛勝負は牛歩でのろい
巨大イベントを巡って奔走する人々を描いた芥川賞受賞作『闘牛』。芥川賞史上、綿矢りさ『蹴りたい背中』以上の「これが芥川賞?」な作品です。もちろん悪い意味ではなく、良い意味で。
巨大イベントを動かしつつも、その混乱に振り回される主人公。当然、純文学らしいこまやかな心理描写もあります。
それ以上にこの作品を輝かせているのは、矢継ぎ早に主人公に降りかかる問題、心配、おいしそうな話、個人的事情、不可抗力の出来事、などです。
芥川賞というよりは直木賞向きか、という感じもします。もっと言えば芥川賞や直木賞の型にはまらない何かを、『闘牛』も『蹴りたい背中』も持っているとも言えるのではないでしょうか。
純文学として読むも大衆文学として読むも良し、あるいはもっと別の読み方をするも良し。発表されたのは戦後まもなくで、描かれている時代もまた戦後の混乱期なのですが、時代を経ても全く色褪せてはおらず、読者の読み方によって色々な形で楽しめます。
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