変容 (岩波文庫)
伊藤 整 岩波書店 岩波書店
灰になるまで
この本の主題をひとことで言ってしまえば、かの大岡越前が母親に問うたというあの有名な問いになる。伊藤整は、エゴイズムとの闘いを作品のひとつの主題に掲げた作家である。そして男女というふたりがセックスを通じてエゴイズムの脱却を図り、相手を真の意味で尊重しあうことができる、というロレンスの思想に影響を受けていたことも知られている。本作は、老年の性という重い事実を正面から取り上げながら、年を経ることでその性が青年のなまぐさみを脱し、性欲をみたすために肉体を求める、というエゴイズムから逃れることができる、という意味で、老いを肯定的に描いているとも読める。これから高齢化社会がますます進み、かつてタブーであった老いらくの恋というものも、肉体的な関係を含めてますます増加してゆくし、社会的にも問題になってゆくだろう(なぜなら財産相続が絡んでくるから)。そのような時代において、老人の性を正面からとらえ、老いてゆくことの価値を肯定した本作は、現代的な意味を失っていないものである。
しかし、伊藤整のほぼ全作品を読んできた読者として言わせていただけば、ある意味本作は伊藤整の「手すさび」であり、彼の作家としての最後の到達点というわけではない。本書に触れる機会のあった方は是非彼の最高傑作「氾濫」に進まれることを強くお勧めしておきたい。
大人の恋愛小説の本家
老年の性を扱った作品と評されることが多いが、むしろこれまでの人生、記憶、時間を出会う女性によって回顧し精神的営みを総括している主題だと思う。作家は処女作に向かって成熟する、といわれる。「変容」は処女詩集「雪明りの道」と密接な関係にあるとおしなべて指摘されている。そっと大切にしていたものを取り出して最後に慈しんでいる作品ということであろうか。
また、相手となる女性も単に回想の道具としているのではなく、主人公の日本画家と渡り合う内面、キャリア(それも芸術家であること)をもつことが要請されている。女性に対しても人格を要請しているということだ。
渡辺淳一の諸作品は「変容」を敷衍し、大衆化したものではないか。中島義道は立原正秋と伊藤整を並べて評していたので「残りの雪」を読んでみた。しかし、「変容」は画家を主人公にしている。金に飽かして骨董をやっていやみに芸事をひけらかす「残りの雪」とは大きく違うのである。「変容」の主人公にすれば「所詮(芸術に携わった人以外である)君の味わう人生こんなものだった」と(すごいことであるが)いいたくなるだろう。もちろん登場する女性も違う。「残りの雪」ではなぜ魅力的なのかよくわからないまま、誉められて進んでいくが「変容」の女性には生きてきた背景が書き込まれている。
色恋に年は関係ない
私はまだ30台で自分が老齢となったとき、色恋に対してどうなるのかわかりませんが、きっと年を重ねても変わらないのだろう。年を経るごとに世慣れてしまうのだろう。数十年後にもう一度読み返してみたい本です。
若い詩人の肖像 (講談社文芸文庫)
伊藤 整 講談社 講談社
「若い詩人の肖像」について一言
本著作は、戦後の正統派文芸活動を全うした伊藤整の告白的自叙伝である。
少年が青年となり成人となる道程とその心理的移ろいが、明確な散文体で
描かれている。また、青年詩人から大人の作家への転進ぶりも読み取れま
す。
伊藤整らの文学的功績は、藤村・朔太郎の時代と昭和から平成に生きる我
等に橋渡しをしてるとさえも感じました。
(伊藤と藤村とのエピソードも、ある意味その裏づけを感じました。)
伊藤整の場合、異性との関わりが作家としての感性を磨き上げたようですね!
青年期の普遍性と若い詩人としての特殊性を併せもった自伝
タイトル通り「詩人」の自伝ではあるが、この本の面白みのひとつは誰の人生の過程にも起こりうるエピソードと省察に満ち普遍性を備えたところにある。羅列されていく日常的なエピソードのどれを選ぶかで読み手の自己もあからさまにしていく本である。だからこの本の解説は論者によって扱う箇所が全くばらばらになっている。同じようなエピソードを繰り返すことには、初々しく驚くというまさに「若い」という感性の柔らかさと、日常に変化など求めない生活人の老練な感じを相反して示している。前者は描かれている当時の若者としての主人公と後者はそれを描く円熟した作者の持ち味で、二つが合わさっている。
誰にでもあるような日常を過ごす主人公は、周囲の個性豊かだと思う人を羨望と自分との比較で強く心に映すことにもなる。小林多喜二の描写がもし印象的であるとしたら、多喜二の個性が強いというよりも、極端な道徳や生き方には沿えない自分と照らしている主人公もしくは作者の感性の鋭さによる。
ここには梶井基次郎も登場し濃い影を落としている。この人には芸術的な面で一段上の将棋指しのように思い尊敬をしている。この場合は梶井自身の個性がやはり強かったということになる。しかし印象深い梶井の面影を鋭く照らし出し感受している作者のまなざしというものが結局背後にあり、誰にも起こりうる、すなわち陳腐さとは離れた「詩人」としての自伝にもなっている。
和製ビルドゥングスロマンの傑作
伊藤整が自身の青年期を振り返って書いた教養小説。過去の自分を情緒的というより知的に捉え、自己の発展の過程を鮮明に描き出している。客観的にかっての自分を見ているところが、この作品を単なる自伝ではなく教養小説として成り立たせている一因であろう。感情を抑えた客観的な描写によって淡々とした小説になっているのが欠点でもあるのだが。また当時の様々な文学者とのエピソードも興味深い。特に小林多喜二との邂逅は重要だ。ほとんど話すことのなかった二人だが、それにもかかわらずこれだけ伊藤整に強い印象を与えたということが小林多喜二の個性を表している。
小説の認識 (岩波文庫)
伊藤 整 岩波書店 岩波書店
氾濫 (新潮文庫 い 9-3)
伊藤 整 新潮社 新潮社
究極の小説
生前、文壇に対して傍観的な立場をとり続けた反面、流行作家として持て囃された伊藤整は、その当然の結果として、死後は「忘れられた作家」として無視され続けている。
彼の文筆家としての業績は二種に分けられる。ひとつは、岩波文庫所収の「近代日本人の発想の諸形式」に代表される、文芸評論家・理論家としての面であり、もうひとつは本作に代表される作家としての面である。
本作は、作家としての伊藤整の最高傑作、いや、日本文学史上に残る金字塔である。
主人公の職業が、当時の花形産業であった化学業界の重役、ということで、流行小説のひとつ、と考えられているとしたら(実際そういう評もある)まったくの誤読であり、この作品の真価を見誤ることになる。
この作品の提示するところは、その救いのなさ、ニヒリズムである。そんな小説ならいくらでもあるよ、と言われるかもしれない。しかし、本書の結末は上質のミステリーのように意外性があり、かつ強い説得力がある。「発想の諸形式」でも、弟子筋にあたる奥野健男は「文芸理論としてはまだこれを超えるものは出ていない。少なくとも、ネガティブな意味としては究極まで追求している」と評したが、まさしくその評に対応する小説として作者が提示したのが本作品なのである。
強力にお勧めしたい。講談社文芸文庫あたりの復刊が望まれる。
日本文壇史〈1〉開化期の人々 回想の文学 (講談社文芸文庫)
伊藤 整 講談社 講談社
文学史が、こんなに面白くなってしまっている!!
雑誌に掲載が開始された時は、
明治7年、坪内逍遥が16歳で愛知の外国語学校に
両親に付き添われて入学するところから
スタートしたらしい。
しかし、単行本化された時には、
明治3年までさかのぼり、
新時代となって、食うに困った(?)
仮名垣魯文が、福沢諭吉をパクって
『西洋道中膝栗毛』を書くところからスタート
することになった。
さらに、話はもう少し江戸末期まで戻り、
仮名垣魯文が、82歳で既に盲目となっている滝沢馬琴に
出版する本の推薦文をもらいに行くエピソードなども組み込まれる。
ここら辺から、一気に伊藤整マジックにはめられ、
最高のエンターテイメントを満喫することになりました。
また、江戸の戯作者が、道具屋か薬屋を兼業しなくては
やっていけなかったとか、
明治のジャーナリズムを支えたのは江戸時代からの
戯作者たちだったとか、
外国語学校の一部が商業学校と合併された時、
外国語学校の生徒が、「丁稚学校」に
編入されてたまるか!!と感じ、
退学するものもあった(後の二葉亭四迷もその一人)
など、明治時代の社会史的な面を知ることもできます。
おもしろい! 構成がしっかりしている!
書名から想像していたのとは全く違う面白い本だった。
明治維新の少し前から、坪内逍遙が脚光を浴びるあたりまでが書いてあるのだが、ほとんど水滸伝の世界だ。
あちらこちらで別々に好きなことをやっていた連中が少しずつ関係しあって日本文学の新しい方向性を生み出していく様子が、実に面白く書いてある。
特に、登場する時にはみな本名で書いてあるので、それが後に何という名で有名になる人物なのかわかったりわからなかったりするのがまた面白い。「森林太郎」はすぐにわかるが、例えば、 「またこの山田と同じ級には、英語と漢文がよく出来て、ときどき教師いじめをするが、毎日ボートとか流行りだした野球とか器械体操とか、運動ばかりやっている塩原金之助という、顔にアバタのある学生がいた。」 などとさらりと書いてある。これが夏目漱石であることは巻末の索引で引いてみるまでわからなかった。漱石が出てくるのはこの巻ではここ一カ所。おそらく、先々までの構成が出来ていて、こういう書き方をしたのだろう。
改訂 文学入門 (講談社文芸文庫)
伊藤 整 講談社 講談社
明晰
本書と「小説の方法」「小説の認識」の伊藤整は本当に見事だ。
徹底的に考え抜かれた文学理論が驚くほど明晰に語られている。
小林秀雄の文学談義の対極にある。(小林も優れた評論家だった。が、あのヘンテコな文章にはウンザリさせられる。)
デビュー時の石原慎太郎に、同じ一橋の先輩である伊藤はこんなことを話したという。
「君は一ツ橋を出て損をした。文壇にも学閥がある。一橋閥は残念ながらない。苦労することになるだろう。」
文壇の閥のアウトサイダーだったからこそ、万人を納得させるに足る明晰な文学論を作り上げざるを得なかったのではなかろうか。
また、いかにも近代経済学を学んだ人物の文学論という印象もある。
バタイユの「文学と悪」のような文学を内部から考察した深みはないが、外側からどこまでも明晰に論じている。
ブンガクトハナンゾヤ
「文学とは、著者が自身の思想を物語全体からそれを構成する個々の挿話に至るまでに一貫して託し、言葉によって表現する作品である」
これが、私が本書から読み取った“文学”なるものの定義です。
私が文学という存在に興味を持ったきっかけはライトノベルなる分野の小説に、研究とはおこがましい様な探究心とでも言うべき関心を抱いたからでありました。それを文学上でどう扱うか、もっと突き詰めれば日本の文学史上にどのように位置づけるべきかに興味が向き、文学入門と銘打った本書を手に取った次第なのです。しかし、私は本書から文学の定義を探し出し、読み取らねばならなかった。つまりは文学・小説とは何かとはあくまで自明の事として本書は書かれているのです。文学とは何か、それは小説とどう違うのか、記録とどう違うのか、確かに丹念に読み込めばそれなりの答えは示唆されてはいますが、著者がはっきりとした形で明示したそれらは、文学入門であるにも拘らず欠落しているのです。文学の入門書であるにも拘らず、まずその対象とすべき文学の定義を行わない本書はそれだけでも十分読者の要求を満たし得ないのではないかと、私は感じました。
著者の語る文学が本質的に持つ秩序破壊機能、不回避的に生まれる社会制度に対する不満の表出機能への指摘はまったく反論の余地はありませんが、著者が「金色夜叉」を評して「ものを考える人間は」この物語に「本当の生きる努力があるとして共鳴することはできない」と断ずる様に、文学をまず高尚な意義あるものと前提するような著者の姿勢には違和感を覚えました。毒にも薬にもならない駄文、しかし人々に受け入れられ慕われる駄文は文学にはならないのでしょうか。私は本書の語る文学の定義、意義に関しては賛同するものですが、著者は自ら規定した小説の半身しか語っていないように思うのです。
高校生が文学史を理解するための参考にもなる
社会背景、社会構造にいかに文学は影響をうけるか。構造的に文学を理解している本だといえる。それは著者の多読の賜物だ。そして思考のセンスである。
構造的理解をもたらす批評は哲学、西洋美術、日本音楽の世界にはある。だが、それは多人数による百科事典的分科のワークではなく、構造化するために己のセンスが問われるところのすなわち個人の勉強如何による大変な作業である。
百科全書的なものは多人数のワークで容易に成果があがる。しかし、そこには思考が分断個別化していて他との関連がうまく見出せない。(ハイパーリンクが解決するが)
しかし、本作品のように構造的理解を主とすれば、他著と他作品、他者と自分の関連があり、その背後の時代や社会における意味が光り、その発展史に人間への洞察が際立って浮上してくる。
時代背景、作品構造の検討、芸術の裏にある人間の内的理解、これが半世紀前の視点から書かれたものとすれば、いかに著者が時代に先んじ、そして深く理解しているか驚く。
本書は一般高校生向けの文学史理解、国語科便覧的、作者紹介、作品紹介のレベルではないが、その精神の背景の構造を知るのだから、高校生の文学史理解にも必ず適するものである。
公務員試験や教員試験の一般教養問題にもよい。
小説の方法 (岩波文庫)
伊藤 整 岩波書店 岩波書店
雪明りの路 (愛蔵版詩集シリーズ)
伊藤 整 日本図書センター 日本図書センター
雪明りの路
作家伊藤整が若いときに自費出版した詩集
若い言葉が並ぶ今はなかなか聞くことの出来ない清新なことばが並ぶ
各ページがきれいな創りになっている
本の題名どおり雪国(北海道)の小さな街のなかに息づく青春の息吹がある
冬の夜 寝床のなかで 眠りに着く前にひとつでも読んでみては・・・
毎晩 毎晩 ページのなかから雪のひとひらが漂うような・・・
伊藤整全集〈1〉 (1972年)
伊藤 整 新潮社 新潮社
伊藤整詩集 (1958年) (新潮文庫)
伊藤 整 新潮社 新潮社
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