意識と本質―精神的東洋を索めて (岩波文庫)
井筒 俊彦 岩波書店 岩波書店
「神とは『宇宙のありかた』である」
井筒氏は「神とは宇宙のありかたである」と言っているように思える。そうならばいくつかのことが説明できる。
1 神はなぜ全知全能であるのか
「すべてが入っているもの」こそ、宇宙の別称である。宇宙内のすべてのモノやコトの存在の「ありかた」を神とすれば、神は他者としてそれらの外に立つことはない。時間の地平を越えても宇宙のあり方は変化し得ないから、定義上、神は全知全能でしかあり得ない。
2 なぜ天にいるか
信仰者にとって神の住処は「天」以外にない。天には星ぼしが輝いており、そこには一定の物理法則が明らかに感じられる。「法則」の支配こそ神の第一の能力であるからには、その身に最も近いと思える天界こそ住処と考えるのは自然である。
わずかな過ちは「法則」をセムならではの支配・被支配の概念で考えたこと。どんな「ありかた」も許容される宇宙内において、法則は創り・創られるものではないだろう。法則は、世界の分節のしかたとして「在る」ものだろう。理論物理学が発見間近としている宇宙方程式すら宇宙の「ありかた」の「すべて」を記述するものではない。絶対無分節者としての宇宙を描こうとする宇宙方程式は、表現として分節的記述以外にありえず、いったん分析的に記述されればそれは分節を繰り返すだけであり、無分節状態の再現は定義として不可能になる。記述そのものが永遠に終わらない、という不確定性原理の矛盾があらわれてしまう。
3「宇宙のありかた」は運命論ではない
「宇宙のありかた」の考え方は、すべてがあらかじめ絶対者によってコードされていることの単なる発現であるとする、諦観に満ちた運命論ではない。すべての生命は、輻湊する存在連関の糸の結節点としてのみ存在するが、結節点としての生命は、たまたまそこに密度が高まっているアミノ酸分子の、ゆるい「よどみ」でしかない。しかも、それらアミノ酸は、「拡散」による内部のエントロピー増大を回避すべく、一方向的な時間軸上で非可逆的に入れ替わっているのだから、存在連関の網はあらかじめ織られようがない。
これが形而上学の書です。
著者のエゴが舵取りになっている哲学書が多い中、この書は読む側を徹底的に意識した非常にコンパクトな構造的思索を展開しています。
ちょっとした哲学や宗教への好奇心だけでも十分に理解できる文章なのに、得れる知識は膨大かつ壮大です。
また、現代の日本人において忘れがちな「日本人の本質」も同時に呼び起こしてくれる、拒絶反応のおきない日本的宗教論ではないでしょうか。
哲学的または形而上学的思索(じぶんとは何?せかいって何?神?)を深めたい!と思う上で最初に手に取る書。ということで間違いありません。
是非お読み下さい。
やあ
筋は単純。『「意識」は志向性を持つ。何にむかって?「本質」に向かって、である』。 本書の内容はこれだけである。本書の面白さは、その具体例である。本質論は、無本質からさまざま。日本の禅、中国哲学、イスラーム哲学、インド哲学の「本質」を前に「意識」はどうなる?
ただ、政治的な側面もあるのです。本書の構成は大東亜共栄圏と無縁ではないことも付け加えておく。
東洋思想はこれ一冊で足りる。最高の書。
彼はある意味、北一輝と並ぶ二大日本ファシスト思想家で大アジア主義研究の第一人者大川周明の正統な後継者ともいえる。満鉄東亜調査局大川塾の講師であり、その文献をもとに西洋では現代思想のデリダ、ソシュール、心理学はユング、宗教人類学はエリアーデ、ギリシャ思想、イラン王立アカデミーで禅仏教徒で見性体験を得ながらイランのイスラム教徒にイスラム教を教えた世界的イスラム学の権威。ユダヤ教、ヒンズー教、仏教、儒家、道家からロシア、フランス、ドイツ文学や詩、日本、中国の古典文学、俳句、和歌、日本最大の神道家とされる本居宣長の国学まで主要な東洋思想は大体かれはおさえているが、意識と本質は特に東洋思想的教養はこれ一冊で十分という著作である
意識…
「意識」や「無意識」といった概念はもはや日常語になっており、ともすれば心理学者などでもこうした概念を簡単に自明視してしまうきらいがあるように思えます。この本では、まず意識とはどのようなものかということについて明確な規定が与えられていて深く納得できます。イスラームに興味がなくとも、最初の10ページ程度でも読んでみることをお勧めします。博学ぶりをふりまわすことのない、シンプルで落ち着いた、それでいて説得力ある論調に畏敬の念がたえません。圧倒的です。
東洋哲学覚書 意識の形而上学―『大乗起信論』の哲学 (中公文庫BIBLIO)
井筒 俊彦 中央公論新社 中央公論新社
本書は、現代版大乗論書の創作である
井筒氏は本書の冒頭で、 “『大乗起信論』は、本質的に一の宗教書であり、仏教哲学の著作であるが、後者の側面に絞って、『大乗起信論』を読み直し、解体して、その提出する哲学的問題を分析し、そこに含まれている哲学思想的可能性を主題として追ってみたい。要するに、『大乗起信論』を東洋哲学全体の、共時論的構造化のための基礎資料の一部として取り上げ、その意識形而上学の構造を、新しい見地から構築してみようとするのである。”と述べる。
これは、“『大乗起信論』の伝統的な解釈を踏襲せず、哲学的思想としての可能性を自由に思索してみたい。”ということのようだ。伝統的な解釈よりも自由な思索を重視すると言うのであるから、本書の内容に仏教の立場から疑問を呈することは無意味であろう。
その代わり、本書から受けた印象を一言で表現するならば、大乗経典や大乗論書の創作を彷彿とさせるものであるということである。
仏教史的には、釈尊仏教の教法(理論と実践)から法を失ったのが小乗仏教、失った実践方法は本来不要であったという論理構築を(詭弁と気づかれずに)巧妙に作り上げたのが大乗仏教である。大乗仏教の経論書の創作者も仏教の伝統的解釈から離れて、自由な発想からSF的な小説を書き上げた動機は井筒氏と同様であったに違いない。
良書です
釈尊が始めた原始仏教から大乗仏教を経て、密教にいたる仏教思想史をみると、生の否定から肯定へと、まるで正反対のことをいっているかのようにみえます。しかしその一見矛盾にみえる反転は、実は、論理的に導かれたものだったことを説明した『大乗起信論』の解説です。
説明はかなり難しいところがあり、4つ星が妥当かもしれませんが、あらためて考えてみるととても丁寧に説明されていると思いますので、星5つ。はじめてこれを読んだときはとても感動しました。
興味深い意識論です。
序にこうあります。「切実な現代思想の要請に応じつつ、古典的テキストの示唆する哲学的思惟の可能性を、創造的、かつ未来志向的、に読み解き展開させていくこと、、、私はこのような態度で東洋哲学の伝統に望みたいと考えている。」
私は大乗起信論という書を、この本を読むまで知りませんでしたし、今もこの本が見せてくれた側面しか知りませんが、井筒先生の試みは成功したように思います。この本に紹介されている意識論はとても興味深く、西洋の分析的哲学に行き詰まりを覚える人にとっては新しい風を吹かせてくれるものだと思うのです。
全体的に少し抽象的ですが、論理的思考になれた者にとっては解りにくい矛盾したような東洋思想の構造も含め、大乗起信論の哲学が明快に説明してあります。
井筒氏の東洋哲学ー共時構造構築の第一歩
この本は、或る新書から行き着いた読書で有った。大乗起信論という、仏教随一の哲学書は外典とも偽書とも付かぬ謎の大乗経典だが、その成立年代は5世紀から6世紀に掛けてと云われて居るが、それがどこまで真実かどうか、文献学的に証明仕様の無い事だ。
これは、一種の言語哲学ー<音と意味>の、生成場の研究で在ると井筒先生は言いたかったのか?この古い論書を取り上げて、東洋の思想哲学に通底する、思考の仕方の枠組みを抽出し、それを比較検討して東洋思想の共通基盤の構造を明らかにするのが、この本の真の目的で有った様だ。ダイナミックで、もっと広範囲な「三教指帰」と言う所か?
恐らく、この本を心底理解するには、小乗の各学派、大乗の膨大な経典に通じていなくては、凡そ歯が立たないに違いない。むかし、アサンガの摂大乗論とアビダルマ倶舎論を見た事が有るが、その程度では、ここに目指されている「意味生成場の電磁力学」は、理解不能の状態である。 後書きを読んでも、是から先の研究テーマが、厳然と計画されているのには驚く。日本内では空海がその研究の中心的に成るのだろう。空海は単なる宗教家であるはずが無く、万能の神秘家と云える存在であり、意味の生成と音の対応について、極めて深い事を言っている言語哲学者だ。BR>井筒氏は、未来への研究計画を最終的には阿頼耶識の本格論述まで持っておられたが、その計画は突然の死で絶えてしまう。
是は誠に残念な事であった。あと十年の時間が有れば、どんなに研究は深まった事であろうか?また井筒夫人が後書きを書かれているが、何か異様な後書きの様にも感ぜられた。
悲しみとか、嘆きとかは、夫人は超越されているのだろうか?との思いがした。
素人の拙い感想では有るが、東洋哲学の根源に関心の有る方には、一度、挑戦されてみるのは、とても良い事であろう。「真如」という概念の時空的構造、意識の階層構造、
ヘルマン・ワイル当りなら、多分、数理物理学的意識分析をする力が有るのだろうが?「意味生成論的」にも、概念が混沌から起ち現われる、時空は神秘と驚愕に満ちている。
イスラーム文化その根柢にあるもの
井筒 俊彦 岩波書店 岩波書店
イスラム理解には欠かせない良著
昨今は経済においても、イスラム金融やファンドなどイスラムに関わるようなニュースが
少なくないが、本書は25年以上前に日本の経済人に対してイスラム文化について著者が講演
を行った内容である。
イスラムの始まりから、変遷までを背景を含めて丁寧且つわかりやすく解説しているため、
これまで全くイスラムに興味がなかった人でも十分に理解しやすいものとなっている。
同じ神を崇めるユダヤ教やキリスト教との違い、聖俗同一、イスラム法などについての根っこ
の部分を知ることができるし、また昨今のイラク情勢の中でも「スンニー派」と「シーア派」
の対立などが話題になったが、本書を読めばその事象の本質にある考え方の違いを知ることも
できる。
グローバルな視点が求められる中、イスラムに対する理解は今後当然避けられない。
イスラムを知るための第一歩として本書は欠かせないものとなるのではないだろうか。
25年以上前のものとはいえ、その充実した内容は決して色褪せていない。
イスラームの基本を理解するのに良書。
講演をまとめたものなので、口語調で文章が構成されているのだが、著者の丁寧で論理的な喋り方のため、非常によみ易く、分り易い。大袈裟で余計な修辞も殆どなく、しかし大事なところは「ここは大事です」と書いてあるので、読者は一旦立ち止まって頭の中を整理する事が出来る。著者の長年の研究過程で練り上げられた論理と言葉が随所にみられ、初学者にもわかりやすい表現と論理展開で書かれている。良書である。
最高の入門書と聞きました
いやあ、素晴らしかったです。私はイスラム教など全く知らないものですが、
昨今、「スンニー派」とか「シーア派」とか「ジハード(聖戦)」とか、聞
くので、少し勉強してみようか、と思い、この本をひもときました。
60分x3回分の講義を加筆修正して本にしたものらしいですが、もともとの講
義が、イスラム教のことなど1つも知らず、商売のことばかり考えている経済
人を相手にしたものだったらしく、前提となる知識を全く必要としていません。
教養として、イスラム教を学びたいと思った人ならば、どこかで手に取られる
と非常に参考になると思います。
私ごときが言う資格はありませんが、著者の井筒先生(故人)は慶応義塾大学
・マギル大学(カナダ)で教えた超一流の学者で、イスラム教の世界的な権威
でもあり、信頼に値する著作だと思います。
著者の先見性
なぜイスラームについて語るか? 著者は時流に合わせてではなく、グローバリズムが進行し文化間の対立がやがて起きることを見通しながらイスラームの本質を懇切丁寧かつ簡潔に説く。1981年のことである。ハンチントンが「文明の衝突」を出す十年以上も前にそういう問題意識を持っていた。
イスラームがコーラン解釈を中心とするだけに平和的にも戦闘的にもなる訳だが、これはキリスト教でも仏教でも同じことである。本書の数ページを読むだけで殆どの読者のイスラームに対する理解は一瞬にしてレベルアップすると思う。知識もさることながら、深く静かに思索を促してくれる好著である。
最初に読むべき本
さいきん、9.11やイラク戦争のこともあって、イスラームに対しての関心が急速に高まっている。だから、手軽でよい入門書はないか。いろんな本があるが、まず最初に読むならこの本が定番だろう。
その理由は、著者がわが国きっての碩学であるということもあるけれど、何よりも著者自身が「取り憑かれた」というイスラームの魅力を、著者自身のことばで説明しているところにあろう。
小室直樹氏も述べている通り、イスラームは実は宗教としてはある意味最も完成度が高い。また現在一番信者数を増加させている宗教でもある(もちろん、これは人口増加率の高い地域はイスラーム圏である、という理由もひとつだ)。その理由を具体的に挙げてわかりやすく説明してくれる。
まあ、スンニ派とシーア派の対立は、イスラームにおけるアラビア語の偏重(アラビア語で書かれたもののみが「コーラン」と呼ばれ、翻訳されたものはコーランではない!)や、ペルシャ語圏にとってはイスラームは外来の宗教である、というコンプレックスもあるのだろうが、それは本書からすればマイナーな問題に過ぎない。
イスラーム対キリスト教文明圏、という政治の問題には触れていないから、そのような話題を問題にしたい向きには別書の方がよいと思われるが、イスラームとはどんな宗教なのかについて知りたい読者には恰好の本であろう。
イスラーム思想史 (中公文庫BIBLIO)
井筒 俊彦 中央公論新社 中央公論新社
イスラムの高度な哲理を知る一番の書
イスラムについて理解しがたいという人が多いがこれを読めばその高度な哲理に驚かされるであろう。少しでも哲学なり宗教なりに興味を持つならば自分の信念がどこにあろうと括目させられるだろう。
イスラーム生誕 (中公文庫BIBLIO)
井筒 俊彦 中央公論新社 中央公論新社
対談集 九つの問答 (朝日文芸文庫)
司馬 遼太郎 朝日新聞社 朝日新聞社
コーラン 上 岩波文庫 青 813-1
岩波書店 岩波書店 井筒 俊彦
回教徒の理解
イスラム教というものを、日本人の神道、仏教徒(及び仏教系の新興宗教)の大多数は理解しようとしていない。その突破口として、コーランを読みその内容に触れることは大きな意味があると考えます。
旧約聖書との類似性、キリスト教徒への近親感と反感、土着宗教との確執迫害、宗教儀式、最後の審判などが記載されているかと思えば、子供の授乳期間や生活習慣の改善方法が記載されている。
イスラムの神学校の青年達は、この多岐に渡る内容を、神学的にどのように勉強しているのか興味は尽きません。
三宝に帰依して現世の業からの解脱を説く仏教経典との違いを感じて欲しい。
これがコーランというものか
イスラム教について全く無知だった私が最初に手に取って読んだのが本書です。
読んだ感想としては、信仰者と不信仰者のそれぞれの末路が、はっきりと書かれていて驚きました。(地獄の劫火と楽園)もしも、コーランに書かれていることが真実であるならば、日本人の大半は地獄行きということになります。そう考えると少し、いや、かなり不安になってきました。読んでいて怖くなりました。復活と最後の審判は来るのでしょうか。本当のことを知りたいと思う今日この頃です。
コーランが放つ力強さに無信仰な私は確実に動揺しています。もしかしたら、明日にはアッラーに礼拝しているかもしれません。イスラム信徒の誕生でしょうか。
異文化理解として
人類は何度唯一神を忘れてきたのか?
人間は忘れやすい生き物なのか?
時が経つにつれて重要なことであるとされてきたものごとが
何もしなければ消滅していくことの一例でしょう。
「1930‐45年戦争」の歴史をきちんと学ぶこと、
そして伝えていくことの重要性を再確認することができました。
何はともあれ、丁寧な注釈のおかげでイスラームの方々の考えを理解することができました。
「アリフ・ラーム・ラー」です。
井筒氏の偉大な仕事は、この『コーラン』およびイスラムに関する著作だけでなく、仏教思想を中心に東洋思想全般に対する広汎な知識に基づいて書かれた力作『意識と本質』なども文庫化されており、それらが安価に手に取ることが出来る幸せを感じないではいられません。
さて、今回レビューを書いたのは、井筒「解説」の『コーラン』10章および12章の冒頭に記されている「謎の頭文字」が現行の他の『コーラン(クルアーン)』とは異なっている点を指摘したかったからです。
10章と12章共に「アリフ・ラーム・ミーム」と記されている部分が、
現行の聖典ではどちらも「アリフ・ラーム・ラー」となっています。
もともと意味が不明の部分ですし、違っていてもさしたる影響はない、とも言えそうですが、はたしてそう言い切ってよいものかどうか…とも思います。
岩波書店の方がどなたかご覧になられましたら、ぜひ一度チェックをお願いいたします。
重要な仕事
コーランの日本語解釈版はいくつかあるが、井筒版はその中でも完成度において他の追随を許さない。(ムスリム同士の一致した理解のためにある協会版の意義は商業出版のそれとは異なるので、ここでは除外する。)
しかし、残念なことに、ろくに(古典)アラビア語の知識がないにも関わらず、その勢いある日本語文体を敬遠して「聖典たるもの荘重たるべし」との判断からか、井筒版を避ける専門家や読書人が多い。これは、コーランどころかイスラームを「西欧的あるいは日本的」な意味での宗教に押し込めようとする態度でしかない。結局はアラビア語原文のよさにおいてしか正しくコーランを「体験」できないとすれば、あとはその紹介者がどれほどコーランとイスラームを理解しているか、そしてそれを正しく表現できるかにかかっている。その点で井筒を超える専門家がいたかどうか。専門筋に聞いてみたいものである。そして井筒版に問題があるならば、井筒ほどに釈義書も読み込み日本語力を身につけてから、どうどうとその問題点を指摘し、井筒版ではなくて別の版を取るという姿勢とってほしいものである。井筒とて、最初の出版をその後の研究を経て書き直しているのであり(現出版は「改版・改訳」と位置づけられる)、決して雑な仕事をしていたわけではないのだ。コーランから何かを語ろうとするなら、その位の労力を惜しむべきではない。井筒版を使え、というのではない。井筒版を使わない理由をおざなりに口にするべきではないということである。
評者は別に井筒の仕事を無謬と言っているのでもない。ただ、もし私が若いころ井筒版でなく、別のコーラン解釈を読んでいたなら、今のようにイスラームに魅了されることはなかっただろうと断言できる。
意味の深みへ―東洋哲学の水位
井筒 俊彦 岩波書店 岩波書店
言語現象を照らす潜在意識下の哲学
驚くべき、論集である。中でも東洋思想の根幹にあるインド思想の深遠と仏教の神秘主義(空海的真言)を縦横に論じて言葉の立ち現れる阿頼耶識を予感させる解説があるが、これはもの凄い物だ!。唯識は深い世界だ、意識を分析して意識下のレヴェルを構造化する、そのときの知覚意識は、表層的自己が解体され流れ出すトランス状態に近い。意識は表層レヴェルを掻き分けて、真那識、阿頼耶識、そして根源的な未分化の意識の根源へとつながる。その次元ではもう個我は存在しない。言語現象は、そのレヴェルでのみ有益な命題、定理、法則、を得るのであろう。
生成文法が究極にイメージしているものもそこに有るのだろうか?、表層構造の分析に終始しても、意味の生成を突き止められるか?という疑念がある。
井筒俊彦氏は、イスラム思想、イスラム神秘主義の偉大なる碩学であるが、言語哲学者としての恐るべき博識を改めて再認識した。ソシュールイブン・スイーナーからJ・デリダまで、フッサールからメルロー・ポンティ、ローラン・バルド、ユングからラカンまで、カバラ及び唯識から真言密教まで、およそその精髄を食い尽くしている。神秘思想というものは、精神の最も究極のエッセンスである場合多い事をこの本から改めて知った。東洋思想、特にインド哲学(中観・唯識・華厳)について益々好奇心が沸き立つ。一度や二度読んだだけでは、奥深くて、中々得心の行かない、中身の恐ろしく濃い本です。意味生成の言語学、意識の階層世界について、興味のある方には極めて刺激的な論集です。
神秘哲学 (井筒俊彦著作集)
井筒 俊彦 中央公論社 中央公論社
コスモスとアンチコスモス―東洋哲学のために
井筒 俊彦 岩波書店 岩波書店
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