壁 (新潮文庫) 壁 (新潮文庫)
安部 公房   新潮社   新潮社  
不条理作家の不可思議作品
安部公房は、不条理なことを、不可思議な表現をする作家だと思った。
壁は人の外部にあるのではなく、内部にあるのかもしれない。
人間の存在に対する根源的な意味を問い掛けた意欲作
芥川賞受賞作で作者の出世作。人間の実存性の危うさと人間を他から仕切るものの代表を「壁」に象徴させて描いた作品。「S.カルマ氏の犯罪」、「バベルの塔の狸」、「赤い繭」の三部から構成される。

「S.カルマ氏の犯罪」では、主人公はある朝起きて見たら、名前を失くしていたと言う設定。カフカ「変身」を思わせる出だしである。こうした設定にした場合、カフカのように日常の一コマとして淡々と綴るか、戯画化するしかないが、作者は後者を選んだ。名前を失った事で自らの存在が揺らぐ主人公の狼狽ぶり。この他、有機物(人間)と名刺や洋服等の無機物との闘争。主人公(視たものを胸に吸い取る)を裁く法廷での法学者、数学者、哲学者のナンセンスな論争。風刺だらけである。そして、主人公の胸の廣野には「壁」が生え、次第に成長していく...。「壁」は主人公自身であり、外界との隔絶感の象徴に思える。そして、その廣野の心象風景は廃墟化した都市とも砂漠とも読み手に映る。「バベルの塔の狸」では主人公は身体を失う。つまり、透明人間になる。身体によって生じる影を奪ったのは"とらぬ狸"である。主人公は"とらぬ狸"の指示のままバベルの塔の「壁」を付き抜け、塔内に入る...。この「壁」は現世と黄泉の国の境に思える。両作の主人公とも気が弱い。重要な物を失ったためか、それとも弱いから外界と隔絶してしまうのか。「赤い繭」は更に四つの小品からなる。上作と同様、身体を失くし、繭になってしまう男。世界中の人間が液状になる新ノアの方舟談。そして、作者を有名にした「魔法のチョーク」。ここでは、「壁」は主人公の心の投影である。そして、カニバリズム談。

初期の作品と言う事で生硬い印象もあるが、高度に抽象化された構成の中で人間の存在に対する根源的な意味を問い掛けた意欲作。
「世界の果ては私自身だ」という物語
安部公房さんの(壁)「第一部 S・カルマ氏の犯罪」を読んで、おれも一日考えてみました。

「地球」とか「宇宙」という名前があり、全部ひっくるめて「世界」という名前がありますが、
その内側には、これまたあらゆる名前のついたものが存在し、その実体、または概念が
存在しているということは、誰でもおおよそ認識できると思います。

ですが宇宙の境界(壁)の外側、向こう側には、どんな「世界」がある?のでしょうか。

これまで人間が認識したことのない世界、いわばまだ「名前の無い世界」。
ちゃんとした名前がまだ「無い」ということは、かつて誰も経験したことの「無い」世界、
もっと大袈裟に言うと、まったく概念に「無い」世界で、すなわち誰一人知ることができない世界です。
人間は名前(固有名詞)の「無い」世界で生きたためしがないのであって、「無い」とは喪失した、喪失している、ということ、つまりこの小説の主人公も、ある朝、名前が突然無くなって、自己喪失というか、
そんなめにあうわけです。

自分に名前が無くなったおかげで、砂漠になってしまった主人公の胸について、
哲学者やら法学者やら数学者が出てきて
破天荒な裁判(議論)が繰り広げられます。まさに人類の教師達の退屈しのぎが始まるのです(^^)
いくらみんなが思考を重ねても、人間の認識には限界があって、
主人公も犯罪者のように扱われて戸惑うばかりです。

「自己喪失」=「自己認識でき無い」=「無い」=「無」につながるのであれば、
我こそ認識できる範囲の行き止まり(限界)であって、世界の内側の境界、または世界の(壁)そのもの
という存在と化し「世界の果てとは、私(人間)自身ぢゃないのか」と、
意外な結論に導かれていくのでした、、、

とてもおもしろかった。でも自分なりの解釈が間違ってたらごめんなさい(^^)
わけわからん
芥川賞受賞作。短編が6つ収録されています。けど、これ難解なのね。自分は読んでもわけわからんかった。万年筆がしゃべるし(笑)
「S.カルマ氏の犯罪」は、朝起きると自分の名前が思い出せない。カフカの『変身』を思い出した。カルマ氏が病院に行って、自分の名前が思い出せず、次々と違う単語を言うくだりは爆笑。他にも言葉遊びをしているようなところがある。ちょっとしたギャグですな。これは。結末は、ジョジョ四部を思い出した。
「魔法のチョーク」は、チョークで書いたものが現実に現れる話。なんかウィングマンを思い出すな。ウィングマン読みたくなった。
安部公房の入門書です。
『壁ーS.カルマ氏の犯罪』は安部文学の入門書であり、芥川賞受賞作です。作品のテーマは「アイデンティティの意味とその喪失(モラトリアム)」で「名刺」とは「社会的な自己」(---としての自己)、「名刺を見ている僕」が「本来的・本質的な自己」です。これが理解できないと、その後の安部作品を理解するのは不可能です。詳しく知りたい方には「モラトリアム人間論の時代」(小此木啓吾)を推薦します。「日本の古本屋」というホームページにて古書として購入可能だと思います。
安部作品全体に共通ですが、レビューを見ると、誤読されている方が目立ちますが、比喩の意味を良く考えて読むか、参考文献を読んで研究する事をお勧めします。そうすれば、必ずや感動ものです。

砂の女 (新潮文庫)
安部 公房   新潮社   新潮社  
高校生の頃、不条理にあこがれつつ、安部公房の不可思議性が好きでした。
高校生の頃、不条理にあこがれつつ、安部公房の不可思議性が好きでした。
砂の女は、理解を超える不条理性と不可思議性を持っているように思われました。
なぜかは説明できませんが、安部公房が書いているのならそうなのだろうという感じでした。
人生の意味、自由と束縛、男と女の問題を高度な小説技法で描いた傑作
安部氏は「砂」と「壁」を良くモチーフに用いるが、本作はまさに「砂の壁」に取り囲まれた家の中から必死に逃れようとする男を通して、人生の意味、自由と束縛、そして男にとっての女の存在の意義を問い掛けた作品。

男は昆虫採集のため、ある浜辺に行くが、そこは砂に囲まれた村だった。男は「砂の壁」の上から落とされ、ある家に軟禁状態にされる。家には女が一人いるだけである。女がする事は家が潰れないように砂を掻き出すだけである。男は当然、何回も逃れようと"もがく"が「砂の壁」に阻まれ脱出できない。家の倒壊を防ぐために女の手伝いをして、砂掻きをする始末である。「砂漠は清潔である」とは「アラビアのロレンス」中のセリフだが、本作での砂は暴力的である。無形だが流動的で捉え所のない1/8mmの砂の塊。生きるために、ひたすらその砂と格闘する男と女。人生の意味とは、この砂との格闘のように他者から押し付けられた無為な決め事を繰り返すだけなのか。しかし、男の以前の生活は、この束縛された環境と比べ本当に自由だったのか。色々考えさせられる。

男は逃亡の目的もあって女と関係を持つが、無為な生活の中にも女は必要と言う事か。性の営みも他者に強制された無為な行為なのか。女が終始、"丁寧語"を使うのも怖い。そして、女が示す男への貞操と外界への忌避感も印象的である。高度に抽象化・幻想化された物語でありながら、ザラザラしたリアリスティックな感覚を覚えるのは作者の力量だろう。砂を撒き散らしているのは男自身かと思う程である。まさに、「メビウスの輪」。

高度な小説技法で、生きて行く事の意味、自由と束縛、性衝動の意味を問い掛けた戦後文学を代表する傑作。
比喩。
比喩が複雑で類似であったり対比であったりが
絡み合っていて、私には難解と感じられる箇所も
ありましたが、それでいて純粋な面白さも失わず、
エンターテイメントとしても申し分ないと思います。
読んでいるだけで汗と砂にまみれてこびりつく
ような不快感、薄暗くじめじめした閉塞感など
その時々で微妙な感覚が伝わってくる描写も圧巻です。


す、砂が纏わりついて…。
不条理というより現実味を帯びた理不尽な展開にスッと引き込まれます。
さぁどうする?この手の大きな難問を抱え、如何にしてブレイクスルーするかというストーリーを好む当方としては楽しめました。

オチがやはり文学的。部落に監禁されてから最終的に男がとる行動までの表面的な心境の変化に違和感を感じつつも、読後じわじわと男に内在する「教授」というブレのない根幹が故かという解釈もと考えさせられるから面白い。
戦後最大の傑作
初めて読んでから、かれこれ17年になります。
今でも時々本棚から出して読んでしまいますね。
砂という無機物を限りない手法で表現し、読んでいる者を不快にさせてくれます。
大江健三郎氏が安部公房を「戦後最大の作家」と絶賛しましたが
そのなかでも傑作といえるかと思います。


カンガルー・ノート (新潮文庫) カンガルー・ノート (新潮文庫)
安部 公房   新潮社   新潮社  
死のにおい
「足にかいわれ大根がはえて、ベッドにくくりつけられて黄泉の国をさまよい歩く物語」。

あらすじをものすごく大雑把に述べれば、こんな感じになる。
なんとも荒唐無稽だが、実際に読めば感じるのは、常軌を逸したエキセントリックではない。
むしろ見ないふりをしている不安の種が育つような、不気味さがじわりと迫る。

遺作というだけあって、あちこちに死のにおいが撒き散らされている。
病気、病院、看護婦、ベッド、賽の河原…
この視野のせまさが、まるでベッドから起きられない病人が、夢うつつの妄想の中で生み出した物語という印象を受ける。

だんだん、背中にベッドの気配を感じ、「ひとつ積んでは父のため、ふたつ積んでは母のため」という賽の河原の積み歌が聞こえてくるような気がする。

安部公房氏、最後の長編
ある日突然貝割れ大根が脛に生えた男。
訪れた病院で自走式ベッドに載せられ、生と死、夢と現実の境を彷徨う旅。

行き着くところは?

いつもながら超現実的。 荒唐無稽な場面が脈絡も無く次々と出てくるのにリアル感があり、主人公に感情移入してしまう。

安部さんにしてはノリが軽い感じがしました。

本当に惜しい作家を無くしたと思います。

ノートは閉じるか?
 巻末に付されたドナルド・キーンの解説にならない解説は、「文字通りの前衛文学」ということばで締めくくられる。難解な作品だ。

 カンガルーノートとは新商品のアイデアを求められた主人公がでたらめに提案したものである。ノートにポケットがついている。その頃から、主人公の脛にカイワレ大根が生え、その治療のためにさまざまなところを夢とも現とも知れずに巡りまわる。

 小説の最後の最後に突如現れる、主人公の死を伝える新聞記事は安部文学における、小説世界から現実へと急激に私たちを引き戻すスイッチだ。このスイッチが有効に働くためには、読者の主人公に対する感情移入が極限にまで進み、作品世界にある種の共感を持てるようにならなければならない。この作品は読者の感情移入を基本的に拒絶している。だが、終わりの部分に来て、読者に感情移入を強いる。

 例えば「オタスケオタスケオタスケヨ」の歌であり、「人さらい」の歌である。不安という形で、私たちの心をざわつかせる。そして、新聞記事に導く直前に、文章は簡潔に恐怖を突きつける。

 「箱はただのダンボールではなかった。硬化プラスチックなみの粘りと堅さ。正面にのぞき穴があった。郵便受けほどの切り穴。除いてみた。僕の後姿が見えた。その僕ものぞき穴から向こうを覗いている。ひどく脅えているようだ。僕も負けずに脅えていた。恐かった」

 恐らくは、覗き穴のあるダンボールとは、カンガルーノートのポケットの中に入ったカンガルーノートのポケットの中にカンガルーノートのポケットの中に……という循環を引き起こす無限の入れ子構造を象徴している。ここに至って、この作品の語り自体が、作品自体に織り込まれることになる。カンガルーノートは、向こうの僕の物語として、あるいはこちらの僕の物語として、無限に折りたたまれ開かれる。

 結局、カンガルーノートは閉じられることは無い。
不安。
この小説は怖い。
所謂ホラーではなく、幻想小説に近いジャンルの小説であり、明確な形を持った恐怖は描かれない。一つの奇病を患った男の淡々とした記録だ。
だが読み進める内に怖くなる。乾いた文章と個人の心理描写の裏から、死に代表される喪失に似た、深夜一人でいる時に不意に感じる様な、孤独に満ちた恐怖が這い上がって来る。リアルな病気・病院の描写は作家の経験を活かしているのだろう。
最後まで形の無い死は主人公に付きまとう。これが彼の生前最後の小説だというのは偶然ではない。死の恐怖が傑作を生み出したのだろう。安部公房という天才は、最後に孤独と死を自ら篭絡し、恐ろしく危険な小説へと昇華させた。
この作家が常に描いてきた、実体の無い不安とでもいうべきものが、遂に最後の著作である本作に凝縮されていると思う。間違いなく、傑作だ。
一番読み返した本かも
本作の著者である安部公房は確か、幼少時代は海外で生活していたと思うが、そんな境遇なども相まって安部公房は無国籍な文章を書くと言われており、
確かにそう言われてみれば、その文章からは西洋文化のユーモラスでアイロニカルな一面が伺えるように思われるし
彼の書く小説は大概幻想的でシュールレアリスティックなものだが、日本の幻想小説にありがちな暗い土着的な和製の情念のようなものは伺えず、
どんな暗い話を書いてもどこかしら西洋的なフランクなあっけらかんとした部分があると思う。
本作は彼の遺作であり、死をテーマに扱った前衛小説だが、健康状態を崩し死期を悟っていたであろう彼が今作において
「死」をやはり従来の作風通りあくまでも戯曲的にユーモラスに表現している一方その裏に、迫り来る死に対する恐れ、諦念のようなものが強く感じられる。
彼はルイス・キャロルに影響を受けていたというが、本作は作家の安部公房自身が、少女アリスとして死の深淵を下っていく私小説であると僕は思う。
シュールレアリズムが好きな人はもちろんジブリファンとかにも是非おすすめしたいです。

友達・棒になった男 (新潮文庫)
安部 公房   新潮社   新潮社  
男が望んだもの
いったい『男』はこの世の中で望んだのは孤独なのだろうか?それとも家族愛だろうか?
人々がこの世の中で強く生きるには一人でも生きられるように孤独に対応しなくてはいけないのだろうか?

この本の『友達』を読むと家族とは何か考えさせられる。できればこの本を中学生、高校生の人たちに読んで貰いたい。たいていの人はこの年代になると友達の繋がりが家族の繋がりより大切になり家族の存在がウザイと思うようになる。そんなときこの本を読めば『友達』と『家族』の正しいバランス。ともに必要で人はその二つを求める生き物であるという事に気づくのではないでしょうか。
人は強がって孤独を好むよう見せるが、誰だって愛に飢えれば愛を求める。そういう生き物ではないでそうか。
闖入者
 見知らぬ家族がひとりの男の家に闖入してくる「友達」は、集団と個の吸収過程を黒いユーモアを交えてえがく傑作。登場人物が個性的で愉快、彼ら一家と青年の会話も軽やかでおもしろい。しかし油断は禁物、実はこの一家はとてつもなく恐ろしい友達なのです。


箱男 (新潮文庫) 箱男 (新潮文庫)
安部 公房   新潮社   新潮社  
次世代が見えていた安部公房。
この作品の評価は大きく二分されている。
否定と肯定に大きな振れ幅を描くのだ。
それはストーリーの迷走と、箱男と言う存在のディティールの完成。
箱男と言う現代の世相を反映した存在。
箱男の生態について深く洞察し、ある意味での社会へのアンチテーゼとして確立させ読者を作品中に引きずり込んでいく手法は安部氏の真骨頂だ。
まさかこれほどの小説家を知らなかったとは…。
砂の女は正真正銘の名作だが、これはまた違った形で小説のあり方を早期に提示した現代の若者と過去である安部氏を結ぶ橋頭堡的作品であろう。
少なくとも私は彼の作品を高く評価したい。
結局一番伝えたいのは・・・・・
人間を描写する上で最高の部類じゃないかな、この小説はさ。
箱男という見られることを拒否した人間を軸に、見ることと見られることとの関係性を
安部公房一流の観察力と内面から滲み出す知性の輝きをもって表現してるのが、この作品。
確かに、この作品を傑作とみなせいという意見もあると思う。ラストが、あまりにも迷路に
なっているからだ。だが考え抜いて突き詰めれば人間の思考は迷路みたいなものなんだから
結局、当然の帰結というわけだ。
そして不思議な事に、なぜか時代が経つにつれて、この作品の伝えたいことが明確になって
くるような気がしてるのは僕だけじゃないと思うんだがなー。時代が追いついて来たというか
なんとゆうかさー。
いろんな解釈ができる話だが、僕が思うに一番は「開き直り」だよな。良くも悪くも。
四角四面の箱ってものを伸縮自在なものに変えてるわけよ。つまる所、何男でもいいわけさ。
箱じゃなくてもね。開き直りならさ。
そして開き直って初めて認識する事っては多々あるもんでさ。つまり認識者にはなれる。
ただ認識することと達観することはまた違って、開き直れば、それまで繋いでものを切る
わけだから達観には永遠に届かない。人間って皮肉な動物だと、これを読むたび思うよ。
罪作りな作品
本作の最大の美点であり欠点は、このタイトルだろう。一体何人の中高生が、この素晴らしいタイトルに惹かれてこの本を手にしたのだろうか。そして何人が、この訳の分からなさに跳ね返されて、その他の傑作に出会う機会を逃したのだろうか。想像するだけで残念な気分になる。
もしこれを読んでいるあなたが、安部公房に興味があるけど何から読んだらいいか分からなくて困っているなら、悪い事は言わない、本作はおよしなさい。まずは「鉛の卵」辺りの中期の短編か、「砂の女」にすべし。その次に戦慄の傑作「第四間氷期」。
その後は、全作読みたくてたまらなくなるだろう。そうなってから手に取るべき、中級者向けの作品。
今だに評価の確定していない作品です。
皆さんの評価が意外にも高いのが驚きです。しかし、専門の立場から申し上げると、内容があまりに倒錯していて、文学者の間では評価の低い作品です。参考文献もほとんど無く、あまりお勧めできません。あえて、個人的意見で解説すれば、「見たいけれど見られたくない」という比喩を用いて「現代社会における人間関係の歪み」「正常な人間関係を保てない疎外状況」を描いているというところでしょうか?「箱男」はホームレスの意味ではありません。
現代的
「甲殻類のヤドカリだっていちど貝殻生活をはじめると、
胴から後ろが殻に合わせて軟化してしまうので、無理に引き出されると千切れて死んでしまうということだ。(中略)箱を脱げるのは昆虫が変態するように、それで別の世界に脱皮できる時なのだ。」

箱は「悪夢のような都市」に生きる現代人の避けられない運命―――
昭和48年3月、実に前衛的な小説がうまれたのだ。
そして30年後、現代。
今も町の片隅に転がる無数のダンボールハウス。
他者の視線を遮断した箱男たちは箱という別の世界で
彼の日常を生きる。そして、「別世界」を覗き続ける。


時系列が、登場人物が、そして箱男自身までもがめまぐるく変転し交換し混乱する。
振り乱されるわたしたちは、なんだか箱がほしくなる。
現代にふさわしい作品のひとつではないだろうか。


人間そっくり (新潮文庫) 人間そっくり (新潮文庫)
安部 公房   新潮社   新潮社  
悪魔の証明
ちっぽけなマンションの一室で、予告もなしに世界が崩壊することもある。

この話は終始、ほとんど場面が動かない。
しかもアクションもほとんどなく、会話だけで物語は構成される。
それなのにこのスリルと劇的展開、さすが公房、おもしろすぎる。

まったくのゼロであることは証明するのが難しい。
これはいわゆる「悪魔の証明」と呼ばれるものだが、さて無意識に信じていたアイデンティティや世界が本当であるなんて、いったい誰が証明できるだろうか?

あべこべな論理でひっくり返されて、ねじれて転回して。
さて、もうなにがなんだかわからない。
しゃべくり戦術
会話に会話で進む展開でサスペンスの要素も含んだコミカルな作品です。
安部公房
相対性の意味のなさを、明確に、わかりやすく、かつコミカルに描いている名作と思う。

そのテーマの奥深さにもかかわらず、安部公房の物語になるととってもわかりやすく、すっと入ってくるので不思議だ。
ものすごく難しい話を、たとえ話でわからせてくれるような印象を覚える。
頭の良さと策におぼれた作品、おもしろくない
 一般的に安部公房の観念的な作品はおもしろくない。
 安部公房が「人間そっくり」みたいな作品しか書いていないのなら、こんな言い方はしないし、できないけれど、「けものたちは故郷をめざす」のような名作のすがすがしい映像喚起作用を味わってしまうと、哲学的命題が針金細工のように組み立てられている作品群がつまらなく思えてくる。
 闖入者がやってきてコントを展開していくうちに自我があやふやになってきて最後には……というのも安部公房の中で見慣れたパターンのように感じた。
 他の評者も触れているようにウィトゲンシュタイン絡みで注目すべき作品なのかもしれない。しかし娯楽を提供する読み物としては「落ちが弱くて拍子抜け」と感じてしまう読者がいるのも確かではないか。安部公房の中では傑作とはいえない。
 ただし、この作品が証明するところである作者の非凡な論理的思考力には舌を巻くしかない。
一度読み始まったら止まらない
安部公房がSF?と思い、この本を手にとった私はこれ以上安部公房の世界に引き寄せられまいと彼の作品をしばらく読まないと決心していたにも関らず、読み出したらやめることができなくなった。題材はなんてことない。火星人についてのラジオ番組をかいている脚本家が自分を火星人だと主張する狂人を相手に問答するのだ。しかし、さすがは安部公房!彼の文章は恐るべきパワーを持っている。火星人を名乗る男の弁舌、脚本家の心理の揺らぎが見事に彼らの会話から浮き上がってくる。そして、この奇妙な物語の最後もほどよい余韻を残しながらそれでいて爽快感を与えてくれる。安部公房のファンにはもちろん、彼の作品が苦手な人にもぜひ薦めたい。

水中都市・デンドロカカリヤ (新潮文庫) 水中都市・デンドロカカリヤ (新潮文庫)
安部 公房   新潮社   新潮社  
シュール
シュールです。

私が気に入った作品は比較的シュールじゃない所で「闖入者」で、シュールな好みでいくと「水中都市」でしょうか?中でも1番好きな短編は「飢えた皮膚」です。もしかすると、この短編集の中で最も安部公房臭が低いかもしれませんが、とても気に入りました。あまりにシュールな展開や情景ですと、私の想像力が届かなくて(あくまで受け手の問題です)物語の中に入り込む楽しさは薄れますが、その事が象徴する《何か》を考えてみたくなり、その事について誰かと話してみたくなります。


鳩の銅像というか、それに付随する意識を主人公にしてみたり、コモン君という人物が植物に変身してみたり、とにかく展開も描写も飛び抜けてます。それでいて物語として破綻したりもしていませんし、破綻している様に思えて、何かあるのではないか?と思わせます。何故だか高橋源一郎の「さよなら、ギャングたち」を思い出しました。高橋さんの方が分かり易いけれど、でも初期の源一郎さんも私は好きです。


シュールな絵や、突飛な展開がお好きな方にオススメ致します。
安部公房の持つ独特な硬質の叙情性
~カフカと比較されることの多い安部公房。確かに日本人離れした発想、人間が植物へ、都市が水の中へ、そして世界が永遠の雪に閉ざされる。しかし明らかな社会批判が読み取れるメッセージ性の高い作品もあれば「飢えた皮膚」の様にまるで人を馬鹿にしたかのような肩すかしのエンディングも用意される。そして何より、「詩人の生涯」の静謐と叙情性。強烈なイメ~~ージと心底からのヒューマニズムを詩的なレベルで融合した、日本文学史上まれに見る名著にして、世界史的な名作とも申せましょう。~
闖入者…今の時代と…
 このオムニバスの中に「闖入者」なる小品が描かれていますが、アノ時代、日本は民主主義-と言うか社会主義か?-を国民が謳歌してましたが、そのアンチテーゼとなったのがこの作品。「国民の志が高ければニッポンは良くなる!民主主義バンザイ!」と思い無垢だった中学生の時読んで凄まじい衝撃を受けました。即ち“数の暴力”…。
 今の時代も、この静かな“暴力”が鬱々と潜んでいますが、あの時代に日本人の手でこのような作品が描かれたのは刮目すべきでしょう(海外でもこの作品が概ね好評だったような評論を高校時代に読んだような気が)。

 
不思議な作品の数々
ユニークな発想に基づき、実験的な方法で描かれた初期短編11編が収録されています。『水中都市』『デンドロカカリア』などは意味を探らずに、素直に楽しんで読んでください。ほかに『闖入者』等の民主主義を批判する作品など、面白い作品がたくさん収められています。


飢餓同盟 (新潮文庫) 飢餓同盟 (新潮文庫)
安部 公房   新潮社   新潮社  
最初に読むなら『箱男』
面白いけどちょっと難しいので、初めての安部公房なら、私は断然『箱男』をプッシュします。
冗談のような
飢餓同盟の人々は、何かに飢えている。
それは名誉だったり、命だったり、お金だったり、あまりにも人間的な代物ばかり。
自分の欲望のはけ口を、他者への憎悪に向ける。
これもまたあまりに人間らしい。

「革命」という、こっけいな夢物語を、さらに食らう形で乗っ取る村の人間たち。
いつの時代も、飢える人々はますます飢えて、食らうものはさらに肥え太る。
冗談のような展開は、まさに悲劇を超越してしまった喜劇である。

この文庫は、表紙がなんとも小説の中のあるシーンにはまっていて、格好いい。
雪にうもれた鳥の死骸は、かつて彼らが夢見たものの兆候でありながら、彼ら自身の姿でもあるように見える。
「革命」を試みた反抗者
安部公房の最高傑作。

ありえない「革命」を目指した「男」と、

「彼」に巻き込まれた人々の悲哀。

ほとんど自殺行為に等しい、

「体制」への反抗を企てた「彼」は、

しかし最後まであきらめなかった。

予定された「破滅」は悲喜劇的とは云え、

やはり思いに残る皮肉な哀しみを描き出す。

或いは実現した筈の「夢」の幻である。
ノスタルジーとペーソスにほっとする作品
 安部公房の作品は、骨太のパラドックスとメタファーで形作られた物語構造が気前よく露出しているものと、もう少し普通の物語──人物の背景・心情が丁寧に肉付けされていて寓意を滑らかにしているものとに二分できると思います。「飢餓同盟」は後者に当たります。観念性の高い作品群に疲れてしまった人も楽しく読めるのではないでしょうか。
 この作品には、胸の中の荒野、壁、世界の果てといった直接的なメタファーは登場しませんが、作者の問題意識は依然初期の作品群と繋がっていることがわかるでしょう。小川未明の童話を連想させる製菓工場のある田舎町で展開する正負にわたるユーモア溢れるリアルな寓話になっています。

ブラックユーモア溢れる作品でした
『飢餓同盟』に登場してくる人物はみな何か満らされない思いを持った孤独な人間である。
計画は横取りされ、挙句の果てには狂人として病院に収容されるハメとなるところなどはブラックユーモアに溢れあたしはとても好きですっ!
このブラックユーモアに対して現実を寓話化したつまらないものだと思える方もいらっしゃるかもしれませんが、それはこの作品、もしくは安部公房の作品全てにおいてとても無縁な読者であると言えるのではないでしょうか…

滑稽なまでの生の狂気…
とてもぴったりな言葉だと思います!!


密会 (新潮文庫)
安部 公房   新潮社   新潮社  
密会
安部公房作品の中で一番構成と文体が優れていると思う。
密会……ってインターネットの本屋で検索するとR18の本がズラーって並んでいてそこにぽつんと「密会」がいる。……
安部公房は初期の短編群から「他人の顔」あたりを境にしてコミュニケーションに転向してきた。他人の顔―コミュニケーションの困難さ。箱男―コミュニケーションの拒否。
むろん密会でもコミュニケーションの問題について書かれているが、密会がすぐれているのは現在におけるコミュニケーションの崩壊を描いているからではないだろうか。
コミュニケーションの崩壊……色情狂地獄……やさしいひとりの密会……
絶望の中の絶望といった感じです。
完璧な絶望の彼方
ある日突然やって来た救急車に拉致され、消えた妻の行方を追った主人公の完全な敗北を記す記述で『密会』は終わる。完璧な絶望の描写だ。

もしぼくが明日という過去の中で、何度も確実に死につづけるとするなら、それは、病院/街からの最後の脱出経路として、無数の盗聴器に向かって繰り返し救済を求めること=告白があらかじめプログラムされていたことに気づいているからだ。そこでは、誰もがことごとく「色情狂」という客体と化している。この迷宮の内部では、誰もが、永遠に客体であるほかないのだ。だがここで、ぼくを遥かな彼方から導く力がすぐそこに誕生している。いわば<怪物>としての、「人間の形から遠ざかって行く」娘と「娘の母親でこさえたふとん」、ただそれだけが、やさしい一人だけの密会をぼくに語らせる力を持つのである。来るべき民衆の影として……。
これが一番好きだな
 安部公房は読者を異空間に連れ去る。別に幻想の世界を描いているわけでは何のに異空間なのである。一度読み始めると止まらなくなるのであることが多々あるが、この「密会」もそのうちのひとつ。妻がいきなり救急車で連れ去られたり、下半身が馬の男が現れたり、骨が溶けていく少女に惚れ込んだり、日常あり得ないような出来事に遭遇しながら、最後に出会うのは真の絶望?
 とにかく、この小説のさまざまな仕掛けに魅了される私(あなた?)がいるのは間違いない事実。あなたは医者ですか。それとも患者?
きえた妻
失踪した妻を捜し求める男の前には、卑猥で狂気にみちた医者や看護婦、患者などの立場の異なる病院の構成員たちが現れる。猜疑、嫉妬などの生々しい感情が錯綜し、苛烈で感傷的な終局へと迷路は突き進む。


R62号の発明・鉛の卵 (新潮文庫) R62号の発明・鉛の卵 (新潮文庫)
安部 公房   新潮社   新潮社  
メビウスの輪のような
まるで、メビウスの輪のようである。

機械と人間、犬と飼い主、社会と犯罪、古代人と現代人。
これらの常識的な価値観と位置づけが、あっという間にくるりと反転して、「あっかんべー」と舌を出してくる。

表題「R62号の発明」「鉛の卵」もいいが、「棒」「人肉食用反対陳情団と三人の紳士たち」もおすすめ。
「人肉〜」は、ああ、不毛な会話というのはこういうのを言うのか、としみじみ痛感する。

気がついたら、ねじくれた世界に突入していて、表か裏かは、もうわからない。
これはシューリアリズムの文学です。
安部公房の変形譚といわれるシュールリアリズムの短編集です。初心者にも、馴染みすく、面白く読める作品群でしょう。ただし、あくまでも、真面目な純文学ですので、星新一のショートショートとは、まったく価値の違うものです。たとえば、人間が何かに変形するというのは、安部の作品においては、人間疎外をシュールリアリズムで表現しているという、深い意味を持ちます。「砂の女」「他人の顔」などの長編を解読する基礎になる作品群ですので、意味を考えながら読んでみて下さい。
秀作
勝手気ままな人間を風刺するかのような、短編集。
安部公房の、多種な文体が伺えました。とても興味深く、面白いです。
特に、死んだ娘が歌ったでは、なかなか鋭く繊維な描写が見られた。
お勧めします。
読後充足感のある傑作
 これは傑作な短編集だ。久しぶりに読んだけどこんなに毒が効いていて、痛快だとは思わなかった。星新一であれば、さらに文章を削いでショートショートに仕上げてしまうのだろうが、私には各短編の適度な分量が満足感を与えられて心地よかった。
なんて不安定な時代に生きているのだろう
 安部公房は時代の的確な記録者でありながら、優れた予言者でもあった。そう、歴史は繰り返す。人類は全く進歩していないのだから。
 「R62号の発明」「盲腸」には、リストラで人心が縮み込んでいる当世への厳しい警告書だ。その中での個人の卑小さが哀しい。そして前者のラストに震撼する経営者もいることだろう。
 「鉛の卵」ではラストに救われる気がするものの、それが本当に救いになるかどうかなんてわからない。
 成長か安定かぐらぐらしているこの不安定な時代。どうして人間はこうも同じ轍を踏んでしまうことに懲りないのだろうか。

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